いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

世の中には、どんな状況でも、「自分の感情」が優先してしまう人がいる。

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良い話だと思う。
なんのかんの言っても、お通夜や葬儀の場では、家族って、「顔を見せてくれた人」のことが、けっこう印象に残るし、会社のしがらみにとらわれずに参列してくれたというのは、ありがたいと思われたのではないかなあ。


ただ、僕はこれを「良い話」として消化しきれないところがあって、この文章を書いている。
それは僕が古い人間だったり、ひねくれていたりするからなのかもしれないけれど。


僕はすでに両親を亡くしており、喪主もつとめたことがある。
遺族側として葬儀を取り仕切るのは、自分自身の悲しみを抱えながら、「公人」としての役割を全うしなければならないところがあり、けっこうキツいものだ。


十分長生きした人が、天寿をまっとうした、というような亡くなりかたで、周囲の人たちも思い出話を和やかに語っている、というケースもあるし、これはそういう状況下、だったのかもしれない。そうであってほしいと思う。
遺族側として会葬者にお礼をしていると、少し立ち入ったことを聞いてくる人もいる。
「なんで亡くなられたんですか?(死因は何だったのですか?)」
病理学者でもなさそうだし、それを聞いて何になるのだろうか、と疑問ではあるのだが、あまり邪険にするのわけにもいかないので、当たり障りのない程度で「癌でずっと闘病していたのですが……」などと答えることになる。


すると、その中に「まあ、私は健康に気をつけなきゃ!健康診断受けないとダメね」などと呟いて、去っていく人がいるのだ。
まあ、気持ちはわかるよ。僕だって、若くして亡くなった人を目の当たりにすると、そう思うことはある。
でも、この場で、それを口にする必要があるのだろうか?
家族だって、「もっと早く治療できていれば……」と自責の念に駆られているかもしれないのに。
思うな、なんて言わない。
その言葉、わざわざ口にせずに、心の中にしまっておいてほしい。


世の中には、どんな状況でも、「自分の感情」が優先してしまう人がいる。
本人に悪気はないし、普段は「いい人」で、みんなに愛されているかもしれない。
ただ、彼らの行動は、デリケートな場面では、他人の傷口をえぐるような結果をもたらしてしまうことがある。


僕は、この人がお通夜に行ったことは、素晴らしいことだと思う。
周囲から「おかしい」と言われても、面識や関係と、悼む気持ちがあれば、遺族にとっても「ありがたいこと」だったはずだ。


だが、その後のお礼のメールのやりとりを読んで、「なんで?」と思わずにはいられなかった。

後日、その偉い人からお礼メール(?)が届き、そのやり取りの中で以下を返信。
・周りからあーだこーだと言われた
・だから友達として参列した
・つまり僕らは友達になっちゃったー
・飯行きましょう!


僕には、これが「蛇足」だとしか思えないのだ。
僕だったら、お礼のメールが来たら、「このたびは御愁傷さまでした。故人の御冥福を心よりお祈り申しあげます」くらいの儀礼的なやりとりにとどめておく。
人の死や葬儀の「主役」は、亡くなった人であり、遺族だからだ。


遺族にとっては、この人が「周りからあーだこーだ言われた」なんていうのは、不要かつ、周りの人へのネガティブな感情を生むものでしかない。
「友達」アピールが悪いわけじゃない。
でも、それは、大切な人を失って、余裕を失っている相手に対して、いま、このタイミングでやるべきことなのだろうか?
葬儀が済んで、しばらくしてから、「最近いかがお過ごしですか?」と打診するほうが、良いのではないか。


「チャンス」だと思ったのかもしれないし、実際にそうなのかもしれないけれど、僕だったら、これを「チャンス」だという人に、心を許すことはないだろう。
そもそも、こういう話を、ブログに書くことはどうなのか。
良いとか悪いとか決められるわけではないし、僕だって、しばしば「書くべきではないこと」を調子に乗って書いてきた。そして、何度も深く反省することになった。
(でも、なかなかやめられないのが「他人に露出してみせること」の怖さなんだよね。人に忘れられそうになると、つい、裸踊りをはじめたくなってしまう)


人って、自分が「すばらしいこと」をやったと思っているときほど、隙をつくりやすい。
こういうオープンなところがこの人の魅力なのかもしれないけれど、僕は「ああ、この人は、野球選手だったら、9回裏、1点負けている状況での攻撃、ノーアウト1塁2塁でも、送りバントをしようなんて思わないタイプなんだな」と感じてしまった。


なんでこれを書いたのかというと、僕自身、自分のこういう感覚が「正しい」のかどうか、自信が持てないからではある。
人と人との距離のとりかたというのは千差万別だし、このお礼のやりとりで、遺族はさらに感謝してくれたのかもしれない。
そもそも、ここに出てくる情報だけで、すべてを判断するのは無理だ。


ただ、最近の僕自身の感覚として、「ネットでのコミュニケーションに慣れてすぎて、実生活での他人との距離のとりかた、越えてはいけない『一線』の引きかたが、ちょっとズレてしまった人が多いのではないか」というのがあるのだ。
そこにいきなりズカズカ踏み込んでくるのか、とか、なぜ他の人が悲しんでいる場で「自分語り」をはじめてしまうのか、とか。
もちろん、昔から、そういう人はいたのだけれど。


善い人が「善意」のもとでやっていることだけに、なんともいえないやるせなさがあるというか、こんなエントリを書いている僕のほうがおかしいような気もするのだけれど、それでも、書かずにはいられなかった。
もちろん、喪主が全員僕のような人間なわけがない。でも、こういう人間だっている。


「空気を読め」という空気が、僕はあまり好きじゃない。
僕自身も、それがあまり得意じゃないしね。
でも、本当に大事な「友達」なら、「悼むための場」でつくるべきではないと思う。
「善意」は、ブログに書いたとたんに、少し「打算」になる。