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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

6歳のレクシーちゃんの悲劇と「例外をつくること」の難しさ

www.americaforce.com


このニュース、金曜日の『とくダネ』で見たのですが(性格には、録画してあったのを観たのですが)、この女の子、6歳のレクシーちゃんは実の父母からは愛情を受けられず、笑うこともできないような状態で、里親であるページさん一家のもとに引き取られたそうです。
そこでは、夫妻の実の子どもたちと分け隔てなく育てられ、「普通の子ども」として、ようやく笑えるようになったのです。
その後、実親が養育を希望しなかったこともあり、レクシーちゃんはページ家に養子として迎えられていました。
1歳半からずっと過ごしてきたのですから、レクシーちゃんには、ページ家の子どもとしての記憶しかありません。


d.hatena.ne.jp
上のエントリを読んでいただければ、「ネグレクトの影響で笑うこともできなかった」レクシーちゃんを普通の女の子として育ててきたページ夫妻の努力の一端がうかがえると思います。
一度傷ついてしまった子どもの心は、なかなか癒せない。
「里親」というのは、綺麗事だけではつとまらない。


ところが、先住民族を保護するためにつくられた法律で、レクシーちゃんは、この一家から引き離されることになったのです。

ページさん夫婦以外の親を知らないレクシーちゃんは、1/64だけチョクトー族というネイティブアメリカンの血を引いています。「インディアン児童福祉法」という、1970年代にネイティブアメリカンの子供の最も重要な権利を守ることを目標として制定された連邦法によって、レクシーちゃんはネイティブアメリカンを親として暮らさなければならず、実の父親の親戚の元に送られます。


たった「64分の1」のために。
ちなみに、64分の1というのは、ひいひいひいひいおじいちゃん(おばあちゃん)ということになりますね。なんかもう、やたらとヒーヒーいってる感じです。


僕はこのニュースで、レクシーちゃんがページさん一家から引き離され、なんでそんなことになってしまったのかわからずに号泣している映像をみて、「これはあんまりだろ……」と憤りを感じたのです。
先住民族の文化を守る」ことは大事なことだと思う。
でも、この事例に関しては、レクシーちゃんの幸せが、このままページ家の一員でいることと、実父の親戚の、面識もない「新しい親」と暮らすことのどちらにあるかは「自明の理」でしょう。
アメリカの裁判所(裁判官」って、何やってるんだよ!


……でも、法律に照らし合わせて判決を出すのであれば、裁判所の判断は、まちがってはいない。
もちろん、基本的人権の観点からみて、レキシーちゃんを「特例」とすることだって、できるんじゃないかとは思うけど。
先住民族に関連した問題というのは、アメリカではすごくデリケートに扱われ、彼らの「権利」に対して、「64分の1なんて、ほとんど影響ないのに」とは言えない社会的なコンセンサスもあるそうです。
そういう「人種問題」が背景にあるため、レキシーちゃんという「個人」の気持ちや幸せは、無視されることになってしまったのです。


ただ、このニュースを観て、一日経ってから思うに、こういうことに「特例」をつくってしまうと、きっと、多くのケースで、その「特例」を前例とした判断が求められるようになり、法律がなし崩し的に無効になってしまう、という可能性もあるのですよね。
Wikipediaの記述によると「インディアン児童福祉法」には、こんな背景があるのです。

 合衆国は「インディアン寄宿学校」の導入に続き、さらなる先住民族同化政策として、本土とアラスカのインディアン及びエスキモー、アレウトの家庭から強制的に児童をとりあげ、白人の家庭に養子縁組させる、公的なプロジェクトを続けている。
 この養子縁組はBIA(インディアン管理局)の後押しを受けた「アメリカ児童福祉連盟」(CWLA)による支持と資金提供を得て、1958年から1967年にかけて活発に行われた。 CWLAは「白人(White Man)には分別がある」として、これを合法であるとする論調で事業を進めた。結果、1978年の「インディアン児童福祉法」(ICWA)制定までに、全てのインディアン児童の1/4が彼らの家族から奪い去られ、白人の里親か、または孤児院へと送られたと見積もられている。
 インディアンの家庭から強制的に白人の家庭に養子縁組された児童は、インディアンとしての文化は全く教えられず、ただ単に白人の子供として育てられる。やがて物心がつくころになるとその子供は「インディアンでも白人でもない」という自己の崩壊に直面し、そのほとんどがアルコール使用障害になるか、あるいは自殺してしまうのである。
 このインディアン児童の強制養子縁組に対する「WARN」(「すべての赤い国の女たち」 (Women of All Red Nations)、アメリカインディアンの女性人権団体)による激しい批判と抗議によって、合衆国は1978年になってようやく「インディアン児童福祉法」(ICWA)を制定し、一定の規制をかけることとなった。しかしこの養子縁組自体は「インディアンの貧困家庭からの児童の救済」という福祉目的で完全禁止されているわけではない。


1970年代にこういう法律(インディアン児童福祉法)がつくられたのは、豊かな(白人)アメリカ人が、先住民族の子どもたちを強制的に養子縁組して「同化」しようとした、という背景があるのです。
現在、2016年からみると「昔の話」のようだけれど、格差が激しい現在のアメリカ社会では、もっとマイルドな形で「同化政策」がすすめられていくかもしれません。


もし、ここで「例外」をつくってしまったら、他のケースでも、経済的に厳しい状況にある先住民族の子どもを養子にして、「ウチにいたほうが豊かで愛情も与えられ、幸せなのだから」と主張する人たちの訴えを退けることは難しくなっていくでしょう。
レクシーちゃんの事例は、僕としては「例外的にこのままページ家の一員でいるのが良いのではないか」と思うのだけれども、こういう「ネグレクトの親と献身的な養父母一家」ではない場合は、境界線を決めるのは困難です。
たとえば「実の父母はちょっとダメな人たちで、貧しいけれど、子どもを育てたいと希望している」という状況で、「うちにいたほうが幸せだから」と裕福な養父母が主張した場合は、どうするのか?
結局のところ、ケースバイケースで対応していくしかないのだろうけれど、時代遅れのようにみえる法律であっても、「例外をつくる」ということには、問題もあるのです。


このニュースをみて、日本に不法滞在していたカルデロン一家が強制退去処分を受け、「娘の幸せのために」日本に住み続けることを求めた裁判のことを僕は思い出しました。
あのケースも、「子どもの幸せ」を考えれば、強制退去は酷い仕打ちだったのかもしれません(結果的に、長女は日本に残れることになったのですが)。
しかしながら、「子どもがかわいそうだから、特例として許す」ということになれば、「じゃあ自分たちも許されて良いはずだ」という声がいろんなところからあがってくるでしょう。


「個人」の幸せと、「公の利益」あるいは「公の正義」が衝突するとき、どちらが優先されるべきなのか?


レクシーちゃんが本当にかわいそうだと思うし、里親としてのページさん一家の努力を思うと、なんでこんなことになってしまったのだろう、と憤らずにはいられません。
そういう「情」が裁判所とか政治が行われるところにあってほしい、と願う一方で、この事例には、それだけですべてがうまくいくというものでもないのだ、ということも、考えさせられるのです。