いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

2016年の「見たら負け」について

「見たら負け」
これは、「ブログの女王」として一世を風靡した眞鍋かをりさんの名言として知られています。
いちおう解説めいたことを書いておくと、「『2ちゃんねる』とかに書かれる自分への悪口や誹謗中傷、批判などを見ると精神的にキツいけど、目立っているとアンチが増えるし、書くなと言っても効果はないから、自分が見ないようにするしかない」という話なんですよね。
これはもう、ネットでの「発信側」にとっては、インターネット史のなかで「普遍の真理」だと思われます。
中には「エゴサーチが趣味」なんて鋼鉄ジーグのようなメンタルを持っている人もいるみたいですが、まあ、見なくても気が済む人は、見ないほうが安全です。
僕は寡聞にして、「ネット上での自分の評判を見なかったばかりに、気になりすぎて命を落とした、身体を壊した」という人は知りませんから。


これって、以前は「有名人やネットで発信する人の話」だったと思います。
ところが、最近は、他者のブログに対して、「大嫌いなのに、そのブログを見続けてしまって、見たら見たでイライラが募り、何か言いたくてしょうがなくなってしまう」という現象がみられるようです。
「ようです」って書きましたが、正直なところ、僕もそんな気分になることがあります。
トイレで拭いたあと、つい、指のニオイを嗅いでしまうようなものかもしれません。
そんなの、嗅いだところで、運が良ければ臭くない、運が悪ければ臭い。
嗅がなければ、確実に不快さを回避できるはずなのに、なぜか、それをやってみずにはいられない。
そして、「やっぱり臭かった……」と後悔する。
なんなのでしょうね、ああいうのって。


読むと不快になるブログとかTwitterって、ある程度自分で予想がつくじゃないですか。
そうであれば、「読まない」のが最適解のはずです。
そこに自分の悪口が書かれているのならともかく、大概は「なんか読んでいると苛立つ」とか「もっと自分の足元をみてから、偉そうなことを言えよ」みたいな、自分にとっても、世界にとってもどうでもいいけど、読むと不快になる、というレベルの話なのです。
ところが、そういう「不快指数が上昇することが予想されるところ」に、自ら出向き、「ああ、蒸し暑い!どうなってるんだこれ!」と言わずにはいられない人もいる(僕もそういう傾向があります)。


そもそも、ネットという海は広大だし、多くの場合、相手との距離は自分である程度コントロールできるものです。
やっと建てたマイホームの隣に騒音おばさんが越してくるとか、近所の家がいきなりゴミ屋敷になる、というような「限られた空間での快適さを維持するために、立ち向かわざるをえない問題」とは違います。


世界中に、不快なブログなんて、腐るほどあります、たぶん。
(とはいえ、スワヒリ語で書かれた「不快なサイト」というのは、僕の語学力では読めないので、現実的には日本語で書かれたサイト」ということになりますね)
そんなの、わざわざ、ひとつひとつ探しだして潰しても、キリがない。
ネットは広いし、犯罪行為をやっている人でもなければ、他者を追い出す権利もない。
いや、みんなそんなことはわかっているんだろうけれど、「排除したい衝動」っていうのは、きっとあるんだろうとは思う。


海でおしっこをする人がいることは、みんなが知っている。
子供とかは、「じゃあトイレで」と言っても、なかなか難しいことも多いはず。
海でおしっこをしている人がいると思っていても、多くの人は、海で泳ぎます。
まあ、海は広いし、誰かのおしっこなんて、薄まってしまうだろうし。


だからといって、自分の身内でもない人に、いきなり目の前でおしっこをされたら、やっぱりイヤではありますよね。見えているかいないかの違いだけなのだろうけど。
自分にとって不快なブログも「見えてしまったら、運の尽き」なのかもしれません。
知らなければ、腹を立てることもなかっただろうに。


とはいえ、結局のところ、どんなにあるブログに対して苛立っても、そのブログにブックマークコメントを書いたり、コメント欄に書き込んだり、自分のブログからリンクやトラックバックで批判を送ったりするような行為って、ほとんどメリットがないんですよ。


(1)そんな相手に関わるために使う時間がもったいない
(2)そもそも、聞く耳を持っている人ばかりとはかぎらない
(3)そういう人に逆恨みされたら、めんどくさい
(4)他者を不快にさせるようなブログに執拗に絡んでしまうあなたを見て、周りは確実に引いていく
(5)うまく相手を潰すことができたとしても、「不快なブログ」は、星の数ほどあるので、戦いに終わりはない


 考えてみれば、「ブログ」って、人が依存する対象としては、麻薬やアルコール、ギャンブル、恋愛などと比較すると、「他人からみた迷惑度」は低めで、かなりマシなんですよね。
 だから、「めんどくさいヤツは、ブログで泳がせておけ」というのは、本人にとっても周囲にとっても、合理的な戦略ではあります。


 僕も学生時代、「バカな奴等は、みんなこの世からいなくなってしまえ!」って傲慢にも思ったことが何度もありました。
 でも、それが実現したら、どうなるか?
 僕よりバカな人たちが、この世から消えていったあとに残るのは、「僕がいちばんバカな人間になった世界」なんですよ。
 これは、怖い。あまりにも怖すぎる。


 ネットでは、不快さもまた、コンテンツであるのかもしれません。
 「何の印象も残らない」よりも、「読むとイライラする」のほうが、中毒性は高いものなあ。
 うわー、またつまんないこと書いてる!っていうのは、案外、読む側にとっては心地よい。
 まあ、それで沈黙の読者でいられれば、こちらもちょっとした気分転換になり、向うもアクセスカウンターの数字が増えて、言うことなし、なんだけど。


 世の中には、とくにネット上には「見たら負け」「言及したら、その時点で負け」っていうものが、少なからずあるのです。
 「見たか、この不快な大便を、踏みつぶしてやったぞ!」
 ……って、ドヤ顔しているあなたの靴、ウンコまみれですよ……


世界をひとりで歩いてみた――女30にして旅に目覚める

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