いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

羽生結弦選手と「承認欲求」

昨日、2015年12月14日の夜の『報道ステーション』に、羽生結弦選手が生出演していました。
ああ、なんというか、この世に王子様って本当にいるんだな……とか、感心してしまいましたよ僕は。
試合後のインタビューではなく、こういう形で生で話をする機会というのはそんなになさそうなのですが、やや緊張しつつもにこやかに、かつ堂々とした受け答えで、本当にすごいよなあ、と。
僕は羽生選手の大ファン!というわけじゃないのだけれど、思わず最後まで観てしまいました。
ところで、羽生さんって、芥川賞作家の羽田圭介さんにちょっと雰囲気、似てませんか?
羽系?


羽生選手とキャスターの古館伊知郎さんとの話の中で、こんなエピソードが紹介されていました。

古館:とっても怖いと思うんですけど、怖いことを楽しめる人って、世の中にいるような気がして、たとえば、僕はあの、男性ディレクターに聞いたんですけど、(羽生選手が)15歳のときに、じっくり取材をさしていただいた、そういうディレクターが昨日夜中打ち合わせをしているときに言ってましたけど、「すごいなあ」と思ったって羽生選手を。
 15歳の段階で、「いろんなことを人に見られるのは怖いときもあるけど、人見知りもあるけど、この氷の上で滑っているときに、みんなが僕を見てくれるのが大好き」って言ってたって。
 覚えてます?


羽生:覚えてますね。それがたぶん僕がスケートを好きになった理由の根源でもあると思うんですよ。やはり、自分自身、その、「見てもらいたい」っていう気持ちは強いですし。
 ただ、最近はその、いろんなところでもすべて見られてるのはさすがに窮屈ではあるとは思いますけれども、ただ、その、自分が得意なこと、自分が好きなことに関して見ていただける、あるいはそれを評価していただけるっていうのは非常に嬉しいことだな、って今も感じてはいます。


古館:そうすると、そういう気持ちが根底にあるという自覚も記憶もしっかりあると、「怖さ」と向き合えたりするんですかねやっぱり。


羽生:怖くはあります、ただ。すごく怖いんですけれども、そのう、じゃあ、それを払拭しよう、とは思わないですね。わりとその、グランプリファイナルまでは、その「怖さ」とどう向き合っていくか、ということを非常に考えていたんですけれども、今回の大会、終わってみて感じたことは、「怖さ」と、その、ワクワクであったり、いい感情、ポジティブな感情っていうのは、両立してもいいんだ、と。そのうえで、じゃあ、バランスをとりながら、演技をしていけば、それはそれでまた、その「怖さ」っていうものがあるからこその、そのときの演技になる、っていうふうにも感じました。


古館:裏表ですもんね。


「みんなが僕を見てくれるのが大好き」っていうのを聞いて、「ああ、羽生選手は率直な人だなあ」、そして、「ああ、承認欲求!」と思ったんですよ。
まあ、そういう気持ちがないと、フィギュアスケートって、やらないですよね。
「魅せる」競技なのだから。


どうも僕は、というか、最近のインターネットでは「承認欲求」というものが、あまりにも負のイメージで語られ過ぎているのではないか、と感じます。
羽生選手のこの「見てもらいたい」というのと、ブログで自己アピールしている人は、どちらも「みんなに自分を認めてほしい」という欲求なんですよね。
厳しい練習をして、これだけの結果を出している羽生選手の「承認欲求」を嘲笑する人はいないけれど、ネットの世界では「会社をやめてブログで食べていきます」って言ったり、自慢っぽい文章を書いたりすると、「ああ、また承認欲求モンスターが出てきた」と小馬鹿にされてしまう。
ある意味、羽生選手のほうが「承認欲求モンスター」なのに。


羽生選手の「承認欲求」が認められて、「ブログで食べていく」という人の「承認欲求」が歓迎されないのはなぜか?
前者は人々の役に立ったり、感動を与えてくれるけれど、後者は「自分のこと」だけしか考えていないから、なのか。
羽生選手は、東日本大震災被災し、「こんなときに自分はスケートをやっていて良いのだろうか?」と思い悩んだことがターニングポイントになった、と述懐されています。
しかしながら、その原点は、「見られたい」なのです。
競技を続けていくうちに「目指すもの」が大きくなっていった。
そりゃ、競技人生の最初から、「みんなを元気にしたい」とフィギュアスケートを始める人って、ちょっと想像がつかないものなあ。


まだ子どもの頃の、何者でもなかった羽生選手が「見られたい」と発言していたら、「ああ、承認欲求!」というようなコメントがたくさんつくんじゃないかと思うんですよ。
結局のところ、「承認欲求」という言葉って、あまりにも便利すぎて、現在は「頑張っている人、自分の可能性に賭けようとしている人の揚げ足をとるためのマジックワード」に成り下がっているのではなかろうか。


世の中には「羽生結弦になれなかったスケート少年」や「イチローになれなかった野球少年」がたくさんいるわけです。
イチロー選手がお父さんと一緒にバッティングセンターに通い詰めていたというエピソードは有名ですが、同じようなことをしていた野球少年はたくさんいたはず。
イチロー選手は「成功例」だから美談になったけれど、「野球に賭けたけれど、プロになれるほどの才能はなかった」あるいは「なんとかプロ入りできたけれど、ずっとファームでくすぶってしまった」なんてことは腐るほどある。
「特別な結果を残す」というのは、大勢の「頂点を目指してものすごい努力をしている人々」がつくっているピラミッドの頂点に立つことであり、誰がその頂点までたどり着けるかは、やってみないとわからないところがあるのです。
その頂点を目指す人の数がそれなりにいて、切磋琢磨していくからこそ、頂点はより高くなっていく。


すべての「可能性」に対して、「そんな承認欲求に惑わされずに諦めろ、無謀な賭けをするな」という「常識」を振りかざしている人が、いまのネット(そして、世の中全体)では目立っているようにみえます。
承認欲求っていうのは、人間にもともとあるものだし、それが向上につながることは少なくない。
「自分に賭ける人」がいなくなったら、世の中は、停滞してしまうのではなかろうか。
もちろん、自分自身の「人に見られたい」という欲求を自己否定し、穏便に生きるのは悪いことではありません。
そういう冒険には向き不向きがあるし、僕自身、冒険するより安穏と暮らしたい。
しかしながら、それでもやりたい、という人の足を引っ張る必要もないんじゃないか、と思うんですよ。
人生って、「やって後悔する」よりも、「やらずに後悔する」のほうが、いたたまれないような気がするし。
犯罪とか反社会的行為は別としても。
そもそも、誰が最終的に結果を出すか、というのは、やってみないとわからない。
チャレンジャーのなかで、「明らかにダメであろう人」は、予測ができるとしても。


ただ、羽生選手のような人、最終的に頂点までたどり着ける人っていうのは、周囲に承認欲求だなんだと揚げ足をとられたり、そんなのうまくいくわけないとバカにされたりしても、そんな声を押しのけて、「自分がやるべきことをやる」のも事実です。


一度限りの人生だから、宝くじなんて買わない、という人もいれば、だからこそ宝くじを買う、という人もいる。
どちらが正しい、というのではなくて、それは生きざまの違いでしかありません。


結局のところ、人間みんな多かれ少なかれ「承認欲求」を持っているのだから、それを持っていることを責めるのは無意味です。
「承認欲求」には、怖さがある。
そして、「怖さとポジティブな感情は両立できる」。
うまく付き合っていけば、「承認欲求」は、人間の「動力」にもなるんですよね。


「お前は羽生結弦じゃないだろう?」
その通りです。
でも、羽生結弦選手だって、生まれたときから、いまの羽生結弦だったわけじゃない。



anan (アンアン) 2015/12/16 [雑誌]

anan (アンアン) 2015/12/16 [雑誌]

anan (アンアン) 2015年 12月16日号 No.1983 [雑誌]

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