いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

どうすれば、自分の人生の主人公になれるのだろう?

岡崎に捧ぐ 1 (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ 1 (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ(1) (コミックス単行本)

岡崎に捧ぐ(1) (コミックス単行本)



電池きれてた。
いまも充電率100%とはいきませんが、電源を切ったままにしておくと、このまま壊れてしまいそうだったので。



この漫画、沈んだ心持ちで書店を彷徨していたときに、目立つようにディスプレイされているのを見かけて購入。
この1巻が出たのは今年(2015年)の5月で、もう半年以上も経っていたんですね。
ネットで大概の本の情報は知っているつもりだったのだけれど、そんなこと全然なかった。
もともと漫画にはあまり詳しくない、というのはあるのだけれど。

内容紹介
新しい世代の「女の子友情物語」、始まり!


2014年にWEB上で公開され始められるや、各界著名人の称賛を浴びるなど瞬く間に話題を呼び、短期でページ1000万ビューを記録した人気エッセイ漫画がついに単行本化!!


作者・山本さほさんが、実際の幼馴染み・岡崎さんとのちょっと特殊な友情を描いた“超プライベート”なふたりの歴史。


出会いは小学生時代の1990年代。スーパーファミコン、たまごっち、プレイステーション……懐かしいたくさんのゲームやおもちゃ、笑いと涙のエピソードが、私たちみんなが持つ普遍的な記憶を呼び起こします!


 作者の山本さほさんは、1985年生まれだそうで、僕とは干支一回りちょっとくらい若いんですよね。
 僕のゲーム歴はそれこぞ「ブロック崩し」や「スーパーはスーパーでも、スーパーカセットビジョン」になってしまうので、同世代感はありません。
 そもそも、中学校時代にファミコン全盛期だった僕にとっては、「女の子がテレビゲームで遊ぶようになった」ということそのものが、けっこう「隔世の感」があったわけで。
 僕の中学時代って、「テレビゲームばっかりやってる男子って、気持ち悪い!」とか学校で言いながら、家では、お兄ちゃんのファミコンで遊んでいる女子が少しいた(らしい)という感じでしたから。
 でも、5つ下の妻は何のこだわりもなく、「みんな『ドラクエ』やってた」と言っているので、「テレビゲームは暗い男子がやるもの」だった時代というのは、案外短かったのかもしれませんね。
 『ブロック崩し』から、テレビゲームと伴走してきた人間としては、新しく入ってきた若手との、

「はじめて遊んだゲームは『ゼルダの伝説』です」
ディスクシステム懐かしいねえ」
「いえ、スーパーファミコンの『神々のトライフォース』です」

 なんて会話に、大いにジェネレーションギャップを感じてしまう。
 最近は、2歳児がiPadのタッチパネルを普通に操作している、とかいう話も聞きましたし。


 この『岡崎に捧ぐ』って、1990年代の流行などをまじえつつ、主人公の「山本さん」と「岡崎さん」の「ちょっと変わった友情」を描いているのです。
 『スーパーストリートファイター2』のアーケード版は1991年ですから、『ハイスコアガール』で描かれているのと同じくらいの時期になります。


 山本さんより10年前くらいに子どもだった僕にとっては、この漫画で描かれている、岡崎さんの家に泊まり、一日中テレビゲームで遊んでいる話は、「そんなことができる時代になっていたのか?」と驚くのだけれども、山本さんは、作中で、現在の視点から「岡崎さん(+妹)は、育児放棄(ネグレクト)されていたと思う」と、冷徹に分析していて。それを裏付けるようなエピソードも、たくさん紹介されています。
「自由」は「無関心」の裏返しだった。


「岡崎さんはお風呂の入り方と歯の磨き方を教わっていなかった」
 という、ちょっと絶句してしまうような記述もあります。
 でも、子ども時代は、そんなふうに「自由」な岡崎さんの家の居心地がすごく良かったのだと素直に描いているし、現在から過去を断罪しているわけでもない。
 1990年代というのは、そういう時代だったのかもしれないし、「いろんな家庭環境」もあった。
 たぶん、いま、2010年代は、もっといろんなことが複雑になっているのだと思う。
 親というのは、自分が生きてきた時代、受けていた教育を「標準」だと思いこんでしまうのだけれど、実際は「20年とか30年前の常識がまだ通用するつもりでいる」だけ。
 そういうのって、僕も頭ではわかるのだけれど、なかなか、認めたくないものではあります。


 この漫画、別にそういう「子どもの教育問題」を語りたいわけじゃなくて、「ちょっとオタク的な小学生女子の1990年代」を、ありのままに描いたもの、だと思われます(本当のところは、僕にはわからないからさ)。
 でも、「クラスの与党から外れた子どもの生きざま」って、1980年代も90年代もそんなに変わらないものだな、とも感じるんですよね。


 「クラスで最も友達になりたくないと思っていた女子」岡崎さんは、仲良くなった山本さんに、こう言います。

「山本さん、大好き。」
「………何、突然 気持ち悪いわ。」
「ご、ごめん。でも私、山本さんと出会えて幸せなの。私きっと、山本さんの人生の脇役として産まれてきたんだと思う。」
「はあ!?」


 山本さんは、このやりとりで「私はずっと人間は誰しも自分が主人公だと思って生きていると思っていたのに」と、愕然としてしまいます。

「自分の人生 楽しみなよ……」


 うん、そうだよね、そうなんだ。あなたも私も、自分の人生の主役であるべきだ、あるべき、だ……



 でもさ、「自分の人生」って、何なんだろう。
 それを、今日ずっと、考えていて。
 結局のところ、最近の僕の人生とやらは、マエケンがポスティングメジャーリーグに移籍して、これは来季もカープはキツいなあ……とか、サンフレッチェの優勝は感動的だったなあ、とか、なんでラブリーデイが最後に内外両側から差されて3着になったり、これまで牝馬が3着以内に入ったことがないレースでサンビスタが勝ったり、中京でノンコノユメが届いたりするんだ、とか、M-1で誰が優勝するのか、とかいうことにばかり、左右されていて。
 並べてみると、これらのことは、何一つ、僕自身の力でどうこうできるようなものじゃない。
 にもかかわらず、僕は、こういうことの呪縛から逃れられない。
 それでも「自分の人生」なのだろうか?
 
 
 子どもの学校の成績だとか、家族とのコミュニケーションがうまくいかないとか、仕事のモチベーションが上がらないとか、そういうのはまだ「自分でなんとかできる要素がある」ことだけれども、それは「うまくこなすべきこと」であって、たぶん、人生の「目標」とか「楽しみ」じゃない。


 僕はいま、誰かや何かの脇役、それも、とんでもない大根役者。
 あるいは、何かを応援しているつもりで、かえって、うまくいかないことを増やして、自分を苦しめているだけではないのか。
 

 どうすれば、自分の人生の主人公になれるのだろう?
 そもそも、自分は何をしたいのだろう?


 そんなこともわからないまま、僕の人生は、とっくの昔に、折り返し点を過ぎている。
 こうやって、書く側になるんじゃなくて、誰かに書かれるような生き方が「人生の主人公になること」ではないのか?
 「主役」が自分には不向きなのだとわかっていても、「脇役」であることに押しつぶされてしまいそうな夜もあって。


 師走は、なんとなく僕の心をざわつかせます。