いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

人は、自分がいま置かれている立場で、持ち駒で勝負するしかない。

p-shirokuma.hatenadiary.com

cyberglass.hatenablog.com



この「シロクマ先生は強者の論理を振りかざしている」という言葉に、なんだかすごく引っかかってしまって。
こういうのって、「お前はいま強い立場、安定した地位を持っているから、安全圏からそんなことが言えるんだ」と断定されてしまうと、意見を言いづらくなりますよね。
まあ、これって、「お前は関係ないから黙ってろ」ってことなのかもしれませんが。


id:p-shirokumaさんは精神科医であり、おそらく現時点では、お金に困ってはいないし、人間関係の苦悩も表には出ていない。
ただし、過去には「世の中に合わせること」に悩んでいた時期があって、そこから「適応」していった経験を、後世の同じような立場の人に伝承したいと考えている(というのは僕の勝手な解釈なのですが)。
おそらく、その「適応」できた理由には、医者という専門職について、ある程度社会的に認められ、経済的にも満たされたことが大きいのではないかと思います。



id:cyberglassさんは、過去の自らの経験から、「努力しても、そんなふうに、人間同士の関係にうまくコミットしていけるとは限らないのだから、ネットに向いている人間は、ネットの中で承認欲求を満たしても良いではないか」と反論している。


これって、結局のところ、お互いの立場とか、これまでの経験の違いが反映されているだけなのです。


d.hatena.ne.jp

僕自身、これを読んで痛感したのですが、多分に発達障害的なところがあり、自分には向かない仕事を選んでしまったのではないか、と思うのです。
自分のスケジュールが他人の都合で左右されることに、すごくストレスを感じてしまう。
医者なんて、「いつ呼び出されるかわからない仕事」ですからね……
医療のなかでは、あまりそういうことがないカテゴリーを選んだつもりなのだけれど、人間には、いろんなことが起こるから。


しかし、そう思いながらも、20年とかやり続けているわけです。
浅ましい話にしてしまえば、薄っぺらくて余裕がない僕という人間を、なんとかこの世界によろめきながら立たせているのは、そういう「人から後ろ指を差されることが少ない仕事」のおかげかもしれません。
その一方で、「あまり向いていない仕事」をしていることへの、違和感も降り積もっている。


シロクマさんにも、そういうところはあるのではなかろうか。
本当にこれまでの人生や医者としての仕事に100%満足し、邁進していたら、あんなにブログを書かないだろうし。



勝手に人の内心を忖度するのは、僕の悪い習慣ですね。すみません。


シロクマさんのエントリを「強者の論理」と受け止める人がいることも、理解できます。
僕だって、「それって、勇気がないだけじゃない?」と言うエントリに対しては「勇気にだって才能や個人差があるんだよっ!」って言い返したくなりましたから。


あらためて考えてみると、シロクマさんは『フラットな論理』あるいは『弱者の論理』で語ることができるのだろうか?


僕は長年ブログで書いてきて、なんとなく自分の立ち位置みたいなものが、わからなくなったときもありました。
こんな人間でも「お前は安全圏にいるから、そんなことが言えるのだ」という言及をされることもある。
「それはお前の主観だろ、客観的ではない」と嘲笑されることもある。


そこで、なるべく客観的に「評価」したり、いろんな立場から、物事をみて書くように心掛けるようにしました。
すると、僕のブログには、言い訳ばかりが増えて、何が言いたいのか、よくわからなくなってしまった。
偉い人や有名な人の言葉にばかり頼って、「僕」はどこにもいなくなってしまった。
Mr.Childrenの『innocent world』の一節のように「さまざまな角度から物事をみていたら、自分を見失っていた」。


結局のところ、人は、自分がいま置かれている立場で、持ち駒で勝負するしかない、いまは、そう思っています。
「強者の論理」に見えるからという理由で、自分の気持ちを曲げて、誰かの機嫌を取ろうとしても、そんなのは、すぐに見透かされてしまう。
シロクマさんは、お金持ちで、社会的な地位もそれなりにあって、単著もあって、人気ブロガーです。
そして、その立ち位置から観た光景を、ブログに書いている。
「弱者の味方」「フラット」っぽく偽装するのは、そんなに難しいことではありません。
でも、そのほうが、よっぽど不誠実だと僕は思う。


あまりに偏見に満ちあふれていたり、ヘイトを撒き散らすような言動は、いくらそれが「本心」だと言われても、許容できないけれど、「各人の意見を同じにする」のではなくて、「それぞれの人が、それぞれの持ち駒を並べてみせて、自分の言葉で語り、それを俯瞰すると、なんとなく『真ん中』が見えてくる」というほうが、納得できるような気がするのです。


僕からみると、id:cyberglassさんが、あそこまで「ネットで裸になれる(あるいは、露悪的にすら見えることがある)」ことが、ちょっとうらやましかったりもするのです。
僕は、あそこまで、「情報開示」できない。
ウンコも食えないし(いや、「それ」を想像してみたのですが、想像しただけで、気持ち悪くなってしまいました。やっぱり人間、向き不向きがある)。
そこまでやれる人も、やはり「弱者」ではない。少なくとも、ネットでは。


以前、朝日新聞で「ワーキングプア」が特集されていたとき、「本物のワーキングプアが、朝日新聞なんか読んでるわけねえだろ!」と誰かが嘲笑していました。
確かにそうだよなあ、と。
でも、そうやって「社会」が問題にすることにも、意義はあるのだろうと思う。
「お前らに俺たちの何がわかる!」って言いたい気持ちはわかるけれど、現実的な改革には、そういう「朝日新聞的なもの」の影響力は大きいので。


『嫌われる勇気』が大ベストセラーになりましたが、突き詰めれば、「嫌われたくない、好かれたい、善く思われたい」という欲求を捨てることが、いちばん高いハードルで、いくらあの本を読んでも、つき合いの飲み会をキッパリと断れるようには、なかなかなれない。


このエントリこそ「どっちつかず」の最たるものではあるのですが、僕なりに言えることは、簡単に手に入るものは、簡単にどこかへ行ってしまう、ということくらいかな。


先日、ももいろクローバーZ主演の映画、『幕が上がる』のメイキング映画『幕が上がる その前に』を観ていたんですよ。
冒頭で、試写を観終えた、ももクロのメンバーが、「どうだった?」と尋ねられ、「恥ずかしかった」と。
そのメンバーたちに、本広克行監督が「恥ずかしくないと、お客さんに伝わらない」って、少し照れくさそうに話していました。


僕は、書いている人が、そんな恥ずかしさをこらえつつ、舞台の上で踏ん張っているのがかすかに伝わってくる、そんなブログが好きです。


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

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嫌われる勇気

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