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いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

なぜ僕は「少額会計に1万円札を出すこと」に強い不安を抱くようになったのか?

note.mu


ああ、なんかこういうことって、あるよなあ、と。
海外では、少ない額の買い物に大きなお金を出すと露骨に嫌がられることが多いそうなのですが、日本では、まずそういうことはありませんよね。
たまに「千円札はございませんか?」なんて聞かれることはあるとしても。
この「680円のカレーに1万円札」なんていうのは、ある程度「想定内」なんじゃないか、と思ったりもするのですが、どうなのでしょうか。
そもそも、会計している人だって、お店のオーナ—じゃなくて、「仕事」としてやっている場合がほとんどでしょうし。


基本的には「商売」だし、そこでお客と揉め事を起こしても何の得にもならないから、あまりに極端な例以外は、こころよく対応している(ように見せる)のが一般的なのだと思われます。


ただ、僕自身は、この「高額紙幣を出すと、相手が迷惑するんじゃないか、という不安感」が、けっこう強いのです。
タクシーでは、ある程度の運賃、たとえば5000円かかるのであれば、1万円出しても嫌がられないだろうけど、1000円もしないところで1万円札を出したら、不穏な空気が流れるのではないか、とか、心配になって、乗る前にコンビニでちょっと買い物をしてお金を崩したりもするのです(それはそれで、コンビニに嫌がられるのではないかと、ガム1個とかで済ませることもできないんだよね……)。
たまにバスに乗るときには、執拗なまでに所持金を確認し、「990円までの全金額に対応できるだけの小銭」を用意してから乗ります。
車内で両替できるんですけどね、なんか心配で。


食事に行くときでも、ひとりだとだいたい1000円くらいが基準になるので、1万円札しか持っていないと、個人経営の店とかには、ちょっと入りにくい。
食券制度で、1万円札も使える機械があるところを選んでしまうのです。
(でも、けっこうおつりの千円札を忘れそうになるんですよね……)


こういうのは、ネットとかで、「お店側の事情」みたいなものを、こちら側にいても知ることができる時代の弊害なのかもしれません。
気にしない人は、全く気にしないみたいだし。
僕の場合は、妻にも「向こうも商売だし、そういうのも織込み済み。バイトでレジ打っている子が、そんなのいちいち気にしてないよ。1万円札でチロルチョコ1個、とかでなければ、いちいち気にすることじゃない、そもそも、あなたの人生には、もっと他に気を遣うべきことがあるのではないか……あっ、トイレの電気消してないよ!」などと、よく指摘されています。


こういう「1万円札をどう崩すか」というのは、悩ましいところではありますよね。
一度崩してしまうと、何かのハードルが下がって、あっという間に使ってしまいそうな気もするし。


今回、この話を読んで、まだ小学校低学年だった頃に起きた、けっこうショックだった出来事をあらためて思い出しました。
当時はまだ「おばあちゃんがひとりで店番をやっている駄菓子屋+小さな雑貨屋」というのが近所にあって、そこは、僕たち小学生にとってのオアシスだったのです。
ご近所で、しょっちゅう買い物をしていたので、家族ぐるみの付き合いがあり、おばあちゃんとも仲良しで、『小学一年生』の年間購読予約の特典のドラえもんのハンコを、僕のためにとっておいてくれたこともありました。


ある日のこと、僕は親から100円玉を1個、お小遣いとしてもらったのです。
当時の100円は、小学生にとっては、「ちょっとまとまったお金」であり、僕はひとりで、プチ・ブルジョアな気分に浸りながら、いつもの店に向かいました。
ところがその日は、なんだかあまり買いたいものがない。
でも、店の中のお客は僕ひとりだし、何も買わずに出るのも、ちょっと居心地が悪い。おばあちゃんが、こっち見てるし。
で、僕は目についた、カップに入った一口サイズのヨーグルトみたいなのをレジに持っていって、おばあちゃんに渡しました。100円玉と一緒に。


そのとき、おばあちゃんは、ぼそっと、こうつぶやいたのです。
「10円のものを買うのに、わざわざ100円玉を出さなくてもねえ……」
もちろん、ちゃんと90円お釣りはくれたのですが、僕はそれ以来、その店にひとりで行くことはなくなりました。


おばあちゃんの気持ち、今の僕には、よくわかる。
いや、当時の僕にも、よくわかった。
10円の駄菓子なんて、売れてもほとんど利益は無いでしょう。
めんどくささのほうが先に立つのも、しょうがないな、とは思う。


でも、あの時の僕は、ふだんは優しい、あの店のおばあちゃんの「剥き出しの嫌悪感」みたいなものを、それも、相手が子どもひとりであるというシチュエーションに乗じて見せつけられたのが、すごくイヤで、怖かったのです。
そして、「僕はバカにされたのだな」と感じました。


気持ちはわかるけれど、あのおばあちゃんは、それを口に出すべきではなかった。
「めんどくさい」という内心を、見せるべきではなかった。
もちろん、そう感じるのは自由だけれど、子どもにだって、心はある。
いや、子どもだったからこそ、かえって、その本音が「忘れられない記憶」になってしまった。


僕が「レジでの相手の反応が気になる」ようになったのは、この経験が大きかったのではないかと思っています。
「子供だからといって、油断することの怖さ」みたいなものも、ずっと肝に銘じています。
子供は、ちゃんと、感じている。そして、忘れない。
「子供を子供扱いできない」というのも、困ったものではあるんですけどね。