いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「罪をつぐなう」ということ

 観ていたワイドショーのなかで、『絶歌』の発売について、街の人の声をきいていたのです。
 そのなかで、「罪もつぐなっていないのに、こんなふうに本を出すなんて……」と答えていた人がいました。
 そうだよね……と思いつつも、僕はふと考えたのです。
 いったいどういう状況になれば、「少年A」は「罪をつぐなった」ことになるのだろう?と。


 いまの世の中の慣習としては、罪に対して、刑務所で服役したり、罰金を払ったりすれば「罪をつぐなった」ということになっています。
 その後は、基本的に、外部から何かを強要されることはない。
 もっとも、「少年A」は、犯罪をおかした年齢が低かったので、当時の少年法にもとづいて裁かれ、刑務所で服役してはいないのですけど。


 現実には、それとは別に「刑務所帰り」に対する偏見のような「社会的制裁」もあります。
 「人を殺したことがあっても、刑務所で服役して帰ってくれば、『罪をつぐなった』からリセット」と、周囲の人は割り切れるものなのかどうか。
 できれば関わらないようにしたい、という気持ちはわかるし、僕もたぶんそうすると思う。
 それが、道義的に正しいかどうかは別として。


 そもそも、刑務所に入ることは、「罪をつぐなう」ことなのか?

 2人を殺めて、「無期懲役」の判決を受け、服役中の美達大和さんが『死刑絶対肯定論』という新書のなかで、こう書いています。

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 当所は再犯刑務所ですので、ほとんどの受刑者には服役歴があります。稀に初犯受刑者もいますが、多くは刑務所での生活を何度か経験し、自分が逮捕されることによって、刑務所の門をくぐることは必至と知っているが故に、服役を逃れる為、被害者に暴行を加えたのです。社会で良識と常識を持って生活している皆さんからすれば不可解と思われるでしょうが、受刑者達には窃盗自体は悪いことではない、という意識が根底にある為に、己の非は考慮していません。


 自分が窃盗に侵入したにも拘わらず、被害者に非があるかのように罵倒し、己の罪を認めないという姿は、当所では『当たり前』のことです。


「あんな所にいるからだ」


「向かってくるからだ」


「騒ぐなって言ったのに大声出しやがって」


「盗られたってどうせ会社の物なのに邪魔するからだ。おかげで、こっちがこんなところに長くいることになった。被害者は俺だ」


「俺の人生、なくなったぞ」


 こうしたセリフが、受刑者同士の会話に普通に頻出します。

 再犯を繰り返す者にとって、窃盗自体は犯罪に該当しません。社会で生活するうえでの基本動作(仕事)です。何度も服役している者達にとって、窃盗は域を吸って吐くのと同じくらいに、心身に馴染んだ行為になっているのです。命を奪う訳ではないし、大したことではない、という幻想が強固に成立しています。


「有る所から取って何が悪いの?」


「取られたからって死ぬ訳じゃあるまいし」


「すぐに飯が喰えなくなるってことでもないでしょう」


「管理の仕方が悪いから。これで気を付けるでしょう」


 罪悪感は皆無であり、有る所から盗むことに天から贖宥状か認可でも授かっているような口吻です。

 工場や居室では、受刑者同士が自分の犯行について話す時がありますが、全く反省の情もなく、被害者の悲惨な状況を、自分の暴力性を誇示したいのか、楽しげに語る者がいて、周りも遊びの話でも聞くような雰囲気で聞いています。或る日、同囚達が殺された被害者に対して、「そういう運命だったんだ、そいつは」と嘲笑うかのように言った時には、鬼畜という言葉が私の胸に去来しました。

 堀江貴文さんの獄中記を読んでいても、刑務所のなかで、「ひたすら反省と贖罪の日々を過ごしている人」というのは、ほとんどいないように思われます。


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この本に出てくる「魚河岸くん」とか、刑務所に入ったって、「更生」できそうな感じがまったくしないんですよね……



 そもそも、人間、生きていれば、それなりに「楽しいこと」とか「ちょっと気分の良いこと」はある。
 そこが刑務所であっても、食事のメニューのなかに、美味しいと感じるものがあったとか、吹いてきた風が心地よいとか。

 生活苦を理由とした、あまり多額ではない泥棒とか詐欺、治療して良くなる程度の喧嘩による怪我、なんていうのは、刑務所に収監され、一定期間自由を失うくらいの懲罰で「つぐなった」ことにしても良いとは思います。
 どんな些細な罪でも死刑、ずっと許さない、ということになっては、社会は成り立たない。
 死刑にするのだって、執行する人のトラウマになったりもするし。


 僕は思うんですよ。
 人の命を奪うような罪って、つぐなうことができるのだろうか?って。


 あの「神戸連続児童殺傷事件」で、息子さんを奪われた土師守さんの著書を読みました。

 あの事件は、僕のような第三者にとっては、「あの日に起こった、残虐極まりない出来事」で、すでに歴史年表の一行になってしまっているけれど、家族にとっては、「あの日」で終わったわけではありません。
 家族にとっては、あの日からずっと、淳くんの不在が続いている。
 家族のせいではないのに、「あの日、外出させなければよかったのではないか」「何か、防ぐ方法があったのではないか」と自分たちを責めつづけてしまう。

 あんなことをした犯人が、まだ生きて、この世界のどこかで息をしている。
 それなのに、被害者は、もう、何も感じたり、発したりすることができない。


 極論だと言われることは承知の上ですが、僕の感覚では、「人を殺めた罪をつぐなう」ことにいちばん近いのは「犯人の命を奪うこと」なんですよ。
 それ以外の方法で、つぐなえるようなものなのだろうか?
(お互いになんらかやりとりがあった末での怨恨、みたいなものではなく、神戸の事件のような場合は、「いくら犯人の命を奪っても釣り合わない、でも、それ以上の方法も思いつかない」と感じます)


 そもそも、「刑務所に入れて、自由を奪う」というのは、「懲罰」ではあるけれど、「更生」につながるものなのだろうか?
 そこで「反省」して、「罪に向き合う」といっても、24時間ずっとそんなことができる人なんていないと思う。
 それはとても不快でキツい体験ではあるだろうけれど、僕が見聞きした限りでは、刑務所内での体験で、「考え方や生き方が変わった」という人は、そんなに多くありません。
 「犯罪なんて割のあわないことはしない」というのは「反省」というより「計算」でしょうし。


 その一方で、「一度罪をおかしたら、人生の楽しいことや自分を表現したいという意欲を全部捨てて、ずっと写経でもして生きろ」というのも、ちょっと違うような気がします。
 そういう「ただ、罪をつぐなうためだけの人生」に、意味はあるのか。
 ものすごく矛盾しているようだけれど、罪の意識というのは、その人がある程度「幸せ」というものを実感したことがなければ、生まれてこないものなのではなかろうか。
 美味しいものを食べたことがなければ、「不味い」がわからないように。
 ある意味、罪をおかした人が、自分の人生を取り戻すことこそが「罪をつぐなう」ことにつながるのではないか。


 被害者やその家族が「そんなの許せない」のは理解できます。
 当事者は「何をどうやっても許せるようなものじゃないだろう」とも思う。
 「罪をつぐなった」かどうか、外野が決めることじゃないかもしれない。


 では、「罪をつぐなう」ためには、どうすればいいのか?
 そう考えると、僕には、良いアイディアが浮かばないのです。
 

 「罪をつぐなう」という言葉やイメージは、多くの人が持っているはずなのに、その具体的な例というのは、『恩讐の彼方に』とか『レ=ミゼラブル』みたいなフィクションの中にしかありません。
 永山則夫死刑囚にしても、殺された側であれば「そんな奴の文学的才能とか、知るか!」って言いたくなったはず。
 基本的に、「殺した側」の事情や心境は忖度されることが多いけれど、「殺された側」は、「被害者のひとり」としてカウントされるだけで、みんなにすぐ忘れ去られてしまう。
 加害者は、叩かれることによってでも記憶されるけれど、被害者は、忘れられてしまう。
 犯罪の被害者になるというのは、なんて割に会わないことなのだろう、と考えずにはいられないのです。



淳 (新潮文庫)

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