いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「こどもの日」と「子どもの日」と「子供の日」

5月5日は、端午の節句。そして、「こどもの日」です。


ああ、そうか今日は「こどもの日」なんだな、と思い出し、うちの子どもたちにも柏餅を買って帰ろう、とか、ずっとカープは「鯉のぼりの季節まで」とか言われてムカついていたけれど、今年は「鯉のぼりの季節まで」のほうがはるかにマシな状況だな……と暗澹たる気分になり。


こうして「こどもの日」の話について書こうとして、ふと迷ってしまいました。
さて、今日は「こどもの日」なのか、「子どもの日」なのか、それとも「子供の日」なのか?
この「こども問題」というのは、プロの物書きにとっても、なかなかスッキリしないみたいです。

『その「正義」があぶない』(小田嶋隆著・日経BP社)より。


 子供は、原稿を書く人間にとって、何よりもまず、表記の問題として立ち上がってくる。
 このことに、私は、過去20年来、折にふれて、わずらわされてきた。
 たとえば、どこかのメディアに原稿を書く。
 私は、ふだん、「子供」と、この言葉を、二文字の漢字で表記している。
 と、媒体によっては、ゲラの段階で「子ども」という書き方に訂正してくるところがある。
「ん?」
 最初のうちしばらく、私は、意味がわからなかった。
 で、個人的に「漢字」と「かな」の混じった単語表記が気持ち悪いので、再度「子供」に直してゲラを戻したりしていた。
 と、先方から電話がかかってくる。
「あのぉ、コドモの表記なんですが、『ども』をひらかなにする書き方はお嫌いでしょうか?」
「まあ、あんまり好きじゃないですが。そちらがどうしてもということなら、別にこだわりませんよ」
「……でしたら、恐縮ですが、ここは当方の表記基準に沿って、『子ども』とさせていただきます。どうも申し訳ありません」
「いや、かまいませんよ」
 こういうことが幾度が続いて、何回目かのある時、私は、説明を求めた。
「お差し支えなかったら、『供』をひらがなに開く理由を教えていただけますか?」
 と。この質問に対して先方の語ったところはおおむねこんな感じだった。


1.子供の『供』の字には、「お供」という意味合いがあって、結果「コドモ」と「子供」表記すると、『大人に付き従う者」であるというニュアンスが生じる。

2.その他、「供」を、神に捧げる「供え物」と見る見方もある。


「いや、私がこう思っているということではありません。読者の一部に、いまご説明したみたいな受け止め方をされる人々がいる、ということです。とにかく、慣例として、『コドモ』は『子ども』にしておいた方が面倒が少ないということです」
 なるほど。
 全面的に納得したわけではなかったが、私は、先方の説明を受けいれることにした。モメるのも面倒だし、どっちにしても大差はないと思ったからだ。
 新聞社や雑誌と付き合っていて、この種の問題が持ち上がることはそんなに珍しくない。
 そして、ほとんどの場合、私は、先方の表記基準をそのまま了承することにしている。用語や表記についてこだわり出すときりがないし、実際のところ、文句を言ってどうなるものでもないからだ。


言葉狩り」とまでは言えないのかもしれませんが、「子供」という漢字表記に不快感を抱く人というのは、いまでも存在するようなのです。
 というか、「子供」という言葉を、蔑視や「供え物」のニュアンスで使う人が本当にいるのか、甚だ疑問ではありますし、読む側の過剰反応のような気もするのですが、とりあえず、出版業界としては「避けられるトラブルは避けたい」ということで、「子ども」表記が推奨されているのです。


 ちなみに「コドモノヒ」に関しては、ネットや辞書でいくつか調べてみたのですが、いまは公的な場所では「こどもの日」という平仮名表記が一般的なようです。
 「こどもにも読めるように、全部平仮名にした」なんて話もあるようですが、いくらなんでも「子」くらいは読めるんじゃないかな、とりあえず平仮名が読めるのであれば。
 でも、僕が子どもだった35年くらい前には「子供の日」って書かれていたような記憶もあるんですよね。
 まあ、「どれでもいっしょ」のような気もするし、「それぞれ違う」と言われれば、そうかな、とも思う。
 当事者である「子ども」の意見を聞くこともできないまま、外野から大人たちが「子どもたちはこうされたいはずだ!」と主張しているのです。


 ちなみに、小田嶋隆さんの話には、続きがあります。

説明を受けて後、しばらくの間、私は、「子ども」という表記で原稿を書いていた。
 と、ある時、童話作家の先生(かなり有名な作品を書いているちょっと有名な先生)から、メールをいただいた。前半部分は、いつも原稿を楽しく読んでいるというリップサービスで、後半(←たぶん本題はこっち)は「子供」の表記について、メディア側の強要に負けては駄目だぞ、というお叱りの言葉だった。
 以下、内容を列挙する。


1.「子供」の「供」は、単に複数形の名残り。たいした意味はない。

2・こういう文字を取り上げて問題にしたがるのは、子供を利用したおためごかしだ。

3.差別のないところに差別を言い立ててそれを問題視する連中は、差別をネタに何かをたくらんでいる。油断してはならない。

4.表現者が表記について妥協するということは、武士が刀を捨てるのと一緒。許してはならない。しっかりしなさい。

5.何よりもまず漢字とかなを交ぜて書く「交ぜ書き」は絶対に醜い。書いてはならない。


 恐れ入って、私は、早速返事を書いた。
「了解いたしました。以後気を付けます」
 以来、私は、特に制限がない限り、「子供」もしくは「こども」と書くことにしている。
 でも、媒体の側が「子ども」表記を推奨してくる時には、しぶしぶ従ってもいる。
 うん。わがことながら、ふぬけた対応だとは思う。でも、仕方がないのだよ。独自の表記を押し通すには、それなりの手間がかかる。そういうのが私はイヤなのだ。


 そうか、「漢字とかなを交ぜて書く『交ぜ書き』は醜い」のか……
 子どもの漢字ドリルじゃあるまいし、というのは、たしかに、わからなくもないのです。
 おかげで、みんながとりあえず納得するような「こども」と「子供」の折衷案という選択肢がなくなってしまったわけですけど。
 

 うーむ、しかし今でも、「子供」って、子どもに対する悪感情に基づいた表記だ!って怒る人って、いるのでしょうか? バカバカしい気がして、なんだか都市伝説のようにさえ、思われるのです。
 でも、そんな人は実際に存在しなくても、「いるかもしれない」というだけで、「抑止効果」みたいなものが生まれてくるんですよね。
 わざわざそこに突撃して、喧嘩しなくてもいいだろ、と。


 結局、「こどもの日」と表記されるようになったのは、「大人の都合」なんですよね。
 それも、「誰だかわからない大人」の都合。
 

とか言いつつ、僕も「どれでもいいんじゃない派」なんですけどね。
ただ、カタカナの「コドモ」となると、なんかちょっとイヤなんだよなあ。
「ドコモ」に恨みがあるわけじゃないですよ、念のため。



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その「正義」があぶない。

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