いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

自分の身に起こったことを必然にできない人

『洋子さんの本棚』(小川洋子平松洋子著/集英社)という本のなかで、こんなやりとりがありました。

小川洋子河合隼雄先生とお話しした時にうかがったのですが、病や心の苦しみを抱えてカウンセリングに来る人たちは、自分の身に起こったことを必然にできない。いろいろな過去を、これは起こるべくして起こったとは思えない。後悔を昇華できないんだそうです。


平松洋子そうしてあの時にこういうことをしちゃったんだろう、どうしてあの時にこうしかできなかったんだろうということに、とりこまれていくということですね。あの身を苛まれるような苦しさは、逃げ場がなくてつらい。


小川:すでに起こってしまったことを、あれは必然だった、必要なことだったと思うためには、自分にある意味嘘をついて、物語にして昇華しないといけない。それが出来ないと病んでしまうんですね。


平松:ただ、あれは必然だったと自分の中でおさめていくにも、やはりエネルギーが要る。認めていく、肯定していく力。それを生きる力と言ってもいいのだけれど、何か前に向かっていく力を持つことは大事ですよね。自分をせいぜい、たかだかだなと思いつつ、まだ自力でわかっていない、何か知らないものがあるんじゃないかと目を向けていく。自分ひとりで出来ることって本当に限られていると思うので、そこで誰かと一緒にいてもいいし、仕事でも何でもいいんですけど、そうすると自分の中に自分でも思っていなかったようなものがふっと開く瞬間がある——生きる力って、出会う力でもありますね。


僕自身にも、「自分の身に起こったことを必然にできない」というところがあるんですよね。
「なぜ、あのとき、あんなことをしてしまったのだろう?」
「ああすれば、違う結果になっていたはずなのに」
後悔したところで、やり直せるわけではないのに、そうやって、ずっと自分自身を苦しめてしまう。


その一方で、「自分の身に起こったことは、すべて必然なのだ」と思えるほどの「運命論者」にはなりきれないな、とも感じます。
これまで、「物事には原因があり、結果がある」「失敗は、その原因を分析して、次に活かさなければならない」というのが正しいという世界で生きてきて、いまさら、「すべて必然なのだ」と割り切るのは、すごく難しい。


「すべて神の思し召し」というのは、宗教に帰依した人間の発想なのではないか?
いや、だからこそ、理不尽な死や不幸が押し寄せてくるような時代や世界には、宗教が必要とされるのではないか?


正直なところ、僕自身も、今のところ、割り切れていないまま、生きているのです。
たぶん、程度問題であって、今の日本に生きている「何かに絶対的に帰依しているわけではない人間」は、みんなそうなんじゃないかな。


ただ、この河合隼雄先生の言葉は、なんだかとても僕の心に残ったんですよね。
そうか、「起こるべくして起こった」って考えても良いのだな、って。
だから、とりあえず御紹介しておきます。


洋子さんの本棚

洋子さんの本棚

こころの処方箋 (新潮文庫)

こころの処方箋 (新潮文庫)