いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『レッド』から、『約束された場所で』


『「これだけは、村上さんに言っておこう」と世間の人々が村上春樹にとりあえずぶっつける330の質問に果たして村上さんはちゃんと答えられるのか』という本より。


村上さんの元オウム信者たちへのインタビュー集『約束された場所で』を読んだ読者からの、「オウム信者の人たちは、この世の中に『忘れられた人々」であり、オウムというのは、彼らにとっての『自分たちだけの入り口』だったのではないか?」という質問に対して、村上さんはこう答えておられます。

村上春樹さんの回答>
 我々はみんなこうして日々を生きながら、自分がもっともよく理解され、自分がものごとをもっともよく理解できる場所を探し続けているのではないだろうか、という気がすることがよくあります。どこかにきっとそういう場所があるはずだと思って。でもそういう場所って、ほとんどの人にとって、実際に探し当てることはむずかしい、というか不可能なのかもしれません。
 だからこそ僕らは、自分の心の中に、あるいは想像力や観念の中に、そのような「特別な場所」を見いだしたり、創りあげたりすることになります。小説の役目のひとつは、読者にそのような場所を示し、あるいは提供することにあります。それは「物語」というかたちをとって、古代からずっと続けられてきた作業であり、僕も小説家の端くれとして、その伝統を引き継いでいるだけのことです。あなたがもしそのような「僕の場所」を気に入ってくれたとしたら、僕はとても嬉しいです。
 しかしそのような作業は、あなたも指摘されているように、ある場所にはけっこう危険な可能性を含んでいます。その「特別な場所」の入り口を熱心に求めるあまり、間違った人々によって、間違った場所に導かれてしまうおそれがあるからです。たとえば、オウム真理教に入信して、命じられるままに、犯罪行為を犯してしまった人々のように。どうすればそのような危険を避けることができるか?僕に言えるのは、良質な物語をたくさん読んで下さい、ということです。良質な物語は、間違った物語を見分ける能力を育てます。

 本当に素晴らしい文章だと思うし、「小説の存在意義」みたいなものをこれほど美しい文章にしたものを僕は他に知りません。ただ、「良質な物語」というのをどうやって見分ければいいのか?というのは、とてもとても難しい問題なのではあるのですよね。経験を積めばある程度はわかるようにはなるのだとしても。


 あの「地下鉄サリン事件」から20年ということで、メディアでは、再び、あの事件、そして、オウム真理教のことがクローズアップされています。
 さまざまな番組を観ながら、僕は「何かが違う」と感じていました。
 今「総括」されているオウム真理教は「誤った教義を持った殺人教団」であり、当時から人々を恐怖のどん底に陥れていたことにされているのです。
 でも、僕の薄れかけた記憶の中にある「リアルタイムのオウム真理教」は、「面白おかしいネタをたくさん提供していた集団」だったのです。
 あの選挙のときの「ショーコー、ショーコー」という歌や、あぐらをかきながらの「空中浮揚」(当時はあれをマネしてあぐらをかいたまま飛び跳ねてみようとした人が、たくさんいました)、「ああいえば上祐」「オウムシスターズ」「麻原彰晃はファミレスとメロンが好き」。
 
 
 地下鉄サリン事件を行ない、坂本弁護士一家を殺害したことなどの「悪行」が発覚する前のオウムは、「恐怖の教団」というよりは「変なことばかりやっているおかしな集団」だったのです。
 僕の知り合いに一人、オウムに入信して、帰ってきていない男がいます。
 彼が、オウムに入信したきっかけは「失恋」でした。
 どこにでもあるような、でも、本人にとっては堪え難い挫折。
 なんだか時間が過ぎるのがとても遅く感じて、懊悩した末に、麻原彰晃の著書を手にとったそうです。


 彼はたぶん、間違った物語にとらわれてしまった。
 でも、あの時代、20代前半に、大きな失恋や自分の先行きへの不安から、オウムに接近していった人たちと僕の間には、そんなに大きな違いがあったとは思えない。

 少なくとも、さまざまな事件が発覚する前の「オウム神仙の会」というのは、そのくらいの存在だったのです。


 山本直樹さんの『レッド』というマンガがあります。
 これは、1969〜1972年にかけて、日本に革命を起こそうした若者たち「連合赤軍」を描いた群像劇です。
 登場人物が死んでいく順番に番号が付けられています。
 僕は全共闘とか連合赤軍の話を聞くたびに「当時の若者たちは、何考えてたんだか……本気でそんなことやろうと思っていたのか?」と考えていました。
 でも、この『レッド』を読んでいても、彼らがどこまで「本気」だったのか、僕にはよくわからないんですよ。
 「本気」だったような気もするし、スパイごっこ、革命ごっこをやっているうちに、後戻りできなくなってしまったようにも見える。


 彼らが信じていたものはイデオロギーで、オウム信者たちが信じていたのは宗教だけれども、どちらも、「大義のためなら、人が犠牲になるのは仕方が無い」という方向にシフトし、より過激な行動をとるようになっていきました。

 太平洋戦争での、日本の敗戦が1945年、『レッド』の時代が1970年前後、オウム真理教地下鉄サリン事件が1995年。
そう考えると、そろそろ、「その時期」ではあるんですよね。
イスラム国」の人質事件は「非道なテロ」です。
ただ、いまから20年前に、日本の首都の公共交通機関で、日本人による大規模な無差別テロが起こったことを考えると「日本は平和でよかった」とも言えません。
日常のなかで、何の覚悟も注意もしていなかった人たちに対して突然行われた、ということを考えると、「イスラム国」の人質事件よりも、地下鉄サリン事件のほうが、より危険で悪質なテロだとも言えるでしょう。


このサイクルをみると、「日本では、ちょうど25年くらい、一世代にひとつくらいずつ、こういう狂信的な集団による社会問題が起こる」のではないか、と考えられます。
それは、親から子供への「危険な物語についての申し送り」がうまくいっていないことを示唆しているのです。
今回の「オウム事件」に対する各メディアの切り口をみていると、「オウムは最初から、社会と隔絶した狂信者集団だった」ように描かれています。


でも、当時は、そうじゃなかったんだ。
ワイドショーも、週刊誌も、みんなの日常会話も「オウムという変な連中」のことを、面白おかしくネタにして、バカにしていたのです。
本当は、そこで誰かが「笑ってる場合じゃないよ」って言うべきだったんだ。
言っていた人がいても、僕の耳に届かなかっただけなのかもしれないけれど。
大人は、子供たちに「自分たちは、最初は『オウムで遊んでいるつもり』だったのだ」と告白すべきではないのか。
大きな破綻は、冗談や笑い話のような顔をして、いつのまにか自分たちの傍にいることを、伝えておくべきではないのか。


「間違った物語」の系譜が、オウムで途絶えたわけではありません。
それは、面白おかしく、あるいは、圧倒的な正義のような顔をして、やってくる。
それを、忘れないでほしい。



アンダーグラウンド (講談社文庫)

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約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

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レッド(1) (KCデラックス イブニング )

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