いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「マスコミがすべきことは、正確な情報を過不足なく伝える事」という共同幻想


後藤さん殺害事件で「あさイチ」柳澤キャスターの珠玉の1分間コメント(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース


このエントリを読んで、僕は感銘を受けました。
たしかに、テロへの恐怖や憤りから、「そっちがそうなら、こっちもやってやるぜ!」とか「こういう奴らなら、空爆とかされてもしょうがないだろ」とか、つい考えてしまうのですが、そういう怒りの連鎖が、戦争が終わらない理由ではあるのだろうし。
でもまあ、ネット上での些細な罵り合いでさえ、「自分が攻撃された状況のまま言い返さないようにする」のは結構難しいのだから、もっと深い憤りの場合、当事者にとって「耐える」のはキツいですよね……


読んだ人の反応をあれこれみていると、こんなコメントがありました(書いた人の名前などは省略します。そもそも、こういうのって、この人だけの意見じゃないと思うし)。

テレビが「解釈」を示す?それが求められる?何を言ってるんでしょうね。テレビを含め、マスコミがすべきことは、正確な情報を過不足なく伝える事のみで、その情報を受けて、一人一人が考え、解釈し行動すべきなのに。


「マスコミ」に対して、こういう考えを持っている人は、けっこう多いのではないでしょうか。
「メディアは事実だけを伝えればよい」「客観報道をすべきだ」


でも、現実として考えると、「伝える」という行為から、「誰かの主観」を排除するのは、不可能なんですよ。


『ネットの炎上力』(蜷川真夫著・文春新書)より。

(「ヤフートピックス」について)

 トピックス編集チームは約20人で編成されているという。3交代シフトで24時間カバーしている。大阪支社にも2人配置し、いざという場合に東京を補完できる態勢だという。ほとんどが新聞記者、放送記者の出身で、30代が中心となっている。J-CASTでも同じ問題を抱えているが、編集者としてはもう少し経験を積んだほうが好ましい。新聞社でいうと、デスクの経験者だ。しかし、年代が40代以上となると、よほどの人でない限り、ネットに弱く、過去の経験に引きずられてしまい、ネットならではの編集に向かない。
 トピックスチームの責任者は読売新聞の大阪経済部記者出身の奥村倫弘氏である。40歳。新聞社でいうとデスク直前の年代である。1998年に転職しており、ヤフーの中ではベテランである。98年といえば、ヤフーの草創期で、トピックスが誕生したのが98年7月。まだ、海のものとも山のものとも分からない時代の転職決断だったと思う。私が新聞社を退職したのも同じころで、ネットの将来は期待できたが、いつ、ネットメディアがブレークするかは分からない時代だった。奥村氏に先見の明があったというより、転職決断の勇気が素晴らしかったと言ったほうがよいだろう。
 奥村氏が2009年7月に日本記者クラブで「ネット・ニュース、報道機関の社会的責任とモラル」と題するレクチャーをおこなった。集まった記者が聞きたいことの一つが、トピックスにどんな選択基準があるのかである。文章化されているような基準は無いようだった。新聞社にも、ニュースを掲載する基準が細かく文章化されているわけではないから、当然と言える。
「ニュースの価値判断が出来る人間がニュース選定に当たるべきだ」との考えて記者経験者を採用しているということが、「ヤフートピックス」の記事選択基準を示している。新聞、放送のニュース価値判断に近いということである。しかし、現場には、読まれる記事を選ぶか、読ませる記事を選ぶかの葛藤があるという。アクセス数が大きければ、広告売り上げにつながる。会社のためになる。「会社のために、読まれれば読まれるほどお金になるのだから、読まれる記事を選んで何が悪いのだ」という誘惑が怖いという。
 ヤフーで読まれている記事のジャンル別シェアを見ると、誘惑がよく分かる。
 2009年5月の統計では、エンターテインメントが31%、国内ニュースが17%、スポーツが16%。この三つのジャンルで60%を占める。奥村氏は「海外ニュースは7%」だと嘆いた。海外ニュースがいかに読まれないかとの例で、「ヤフーニュースでは、コソボは独立しなかった」と社内では言っているのだという。コソボの独立は2008年の2月。独立の日、一番読まれた記事はお笑いのR-1ぐらんぷりで「なだぎ武が2連覇」だった。コソボ独立記事のアクセス数はR-1ぐらんぷり記事の50分の1だった。
 こういう奥村氏の話を聞いて、ある質問者は「奥村さんはヤフーニュースに絶望して、また、新聞に戻るのではないか」と皮肉な感想を述べた。
 編集の現場には、悩みや葛藤もあることが分かるが、「ヤフートピックス」はヤフーのニュース感覚、編集感覚の真髄といってよい。新聞的バランス感覚もあるが、一方で、新聞とは違った編集にしたいという意思もうかがえる。


ニューヨーク・タイムズ』の東京支局長であり、12年間も日本で取材を続けているマーティン・ファクラーさんは、著書『「本当のこと」を伝えない日本の新聞』のなかで、こんな話をされています。


ファクラーさんが、2011年1月に、ライブドアの堀江元社長などを採り上げながら、「日本の世代間格差」について記事を書いたところ、「記者はここまで自分の立場を明確にしないほうがいい」という批判のメールが届いたのだそうです。

それに対して、彼はこのように「返答」しています。

 私は最初から、この記事を完全に客観的に書こうとは思っていない。「マーティン・ファクラー」という署名がはっきり入っており、私の目から見た日本を記事に書いていることは明らかだ。


 そのうえで、偏った感情的な表現にならないよう、冷静かつ平等に記事を書いている。この記事は、私が書いたもののなかではかなり極端な内容ではあるだろう。だが、さまざまな状況を吟味したうえで、公正だと判断したときには記者は自らの意見を強く述べてもいいと私は思っている。それは読者に「この記者はこうした主張・信念をもって日々の記事を書いている」という判断基準を与えることもなるからだ。


 その点、日本の新聞に「客観報道」という”神話”が息づいていることは不思議でならない。日本の新聞は言葉遣いや文法がきっちり決まっており、まるで同一人物が書いているかのような記事ばかりだ。自分の名前を出して記事を書く主筆や編集委員、論説委員など一部を除いて、記者が導き出した判断を前面に押し出す記事はほとんど掲載されない。


 公正な報道を実現するために、異なる立場の識者のコメントを両論併記するのは重要だ。だが、無理やりバランスを取ろうとする必要はない。取材を重ねたうえで右、左どちらかの結論に至ったのであれば、記者の署名入りで堂々と記事を書けばいい。いくら新聞が「客観報道」を追究したところで、究極的には報道とは主観の産物でしかないのだ。

 「報道とは主観の産物」なんですよね。


 そもそも、何を記事として載せるか、それを1面に載せるか、隅っこのほうに小さく載せるかという選択そのものが「主観」によって行われているわけですから。

 考えてみれば、「客観報道神話」って、「自分たちが『客観報道』をしなければ、読者はみんな騙されてしまうだろう」というマスメディアの「驕り」でもあると思うのです。

 ブログと一緒で、「この人は、こういうことを普段から考えている人だ」ということがある程度わかっていれば、大部分の人は、「それなりの読みかた」で判断できるはずなのに。


 一時期、「ネットがあれば、もう既存のマスメディアは必要ない」という意見を多く目にしていましたが、時間が経つにつれ、むしろ、ネットは既存のメディアの嘘やヤラセ等に対するチェック機構や、身近な面白ニュースの発掘には役立つけれども、マスメディアにとって変わることは難しいと感じるようになりました。


 ネットでの「とにかくアクセスを集めて稼ぎたい」というメディアやブログのふるまいは、むしろ、「数字が取れればいい、注目されればいい、という既存のマスコミの悪いところを、煮詰めて濃厚にした」ようなものなのです。


 バッシングされることもあるし、完璧な情報ばかりを流しているわけではないけれど、マスコミやYahooは、それでも、「コソボ独立」をトップニュースにするんですよ。
 「それは、メディアとして伝えるべきこと」だと、彼らが「選択」した結果として。
 結局のところ、誰かが順番をつけないと、観る側だって、情報の洪水に呑み込まれてしまいますし。


 「客観報道」を求めるよりは、「そこに誰かの主観が入っていることを前提として、自分なりに考えていくこと」こそが大事なのだと思うのです。
 あとは、自分の気に入らない「主観」であっても、「そういう人もいる」という前提から、スタートすること。
 実際は、難しいですけどね……僕もよくイライラしてしまいます。



ネットの炎上力 (文春新書)

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「本当のこと」を伝えない日本の新聞 (双葉新書)

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