いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

もし、本物の『モナ・リザ』と全く同じコピーができたら、それをどう見れば良いのだろう?

参考リンク(1):もうすぐ絶滅するという芸術の未来について - (チェコ好き)の日記
もうすぐ絶滅するという芸術の未来について - (チェコ好き)の日記


『(チェコ好き)の日記』さんは、いつも面白い。
このエントリを読んで、僕は以前書いた、この話を思いだしました。


参考リンク(2):「よくできた偽物」は、「本物」の代わりにはなれない(琥珀色の戯言)
「よくできた偽物」は、「本物」の代わりにはなれない。 - 琥珀色の戯言



 僕は一介の「美術館めぐりとかが好きなオッサン」でしかないのですが、最近のさまざまな技術の進歩をみるにつれ、こんなことを考えるようになりました。


 もし、本物の『モナ・リザ』と全く同じ(というか、人間には判別不能なレベルの)コピーができたら、人は、それをどう見れば良いのか?


 いや、これって、一昔前の人間にとっては、単なる「思考実験」でしかなかったと思うんですよ。
「そもそも、そんなことができるはずがない」から。
 でも、いまの世の中では、けっして、「夢想」ではない。
 3Dスキャナやプリンターの精度が上がっていけば、いずれは「傷や汚れまで、オリジナルと同じ『モナ・リザ』」が、大量に生産されてもおかしくないのです。
 もちろん、ダ=ヴィンチの時代に使われていた絵の具とかが、今の時代には無かったりはするでしょうけど、その成分を解析して再現することは、不可能ではなくなるはずです。


 で、その「全く同じ『モナ・リザ』は、やはり「偽物」なのか?
 プロの鑑定士が見ても、区別がつかないような「コピー」であれば、少なくとも「モノとして」は、同じはずですよね。
 観る側の「これはオリジナルである」という思い込みがあるかどうか、あるいは、オリジナルは、ダ=ヴィンチが自らの手で書き、「歴史」にさらされているから、というだけの話になってしまうのか。
 参考リンク(1)では、岡田斗司夫さんが「ピカソよりも貞本(義行)さんの絵のほうがいい」と感じた話が紹介されているのですが、これも、考えようによっては、「絵としてすぐれているか」よりも、「どちらのことをよく知っていて、思い入れがあるか」に左右されているのかもしれません。
 僕も、美術館で絵を眺めていると、「良い絵だから有名」なのか、「有名だから良い絵」なのか、わからなくなるときがあります。
 有名な絵には「近くで観たことを他人に自慢できる」というメリットは、確実にあるわけで。


 誰も「本物」と「偽物」を見分けられないようなコピーが出回る時代の「オリジナル」に価値はあるのだろうか?


 美術展に行くと、ときどき、この作品は○日からの展示になるので、いまはコピーを展示しています、というのを見かけます。
 会期中の全部の期間借りられないような作品の場合、こういう対応がとられるわけです。
 人々は、そのコピーの前に来ると「なーんだ、コピーか」と足早に通り過ぎていく。
 でも、もしこれに「コピーです」と書いていなければ、それを見抜ける人は、ごくわずかなはず。
 もちろん、美術館側としてはそんなことをするわけにはいかないでしょうけど、美術館にお金を払ってくる人でも「目利き」としては、その程度でしょう。
 見分けられなくても、「コピーじゃねえ」と思ってしまうのは、なぜなのだろう。


「本物」と同じものが大量にコピーできるようになっても、人は『本物のモナ・リザ』を観るために、ルーブルに足を運ぶのでしょうか?
 むしろ、「ルーブルで観るからこその『モナ・リザ』なのか?


 そもそも、そんなふうにいくらでもコピーできるようになっても、みんな「アート」をありがたがるのだろうか?


 「なんでもコピーできるような時代」になってしまえば、村上隆さんの、高さ3メートル、全長100メートルもの超大作『五百羅漢図』のような「どうだ、こんなにデカいのは、さすがにコピーできないだろ!」みたいなアトラクション的なアートしか「一点もの」は存在しえなくなるのかもしれません。


 僕は、現代アートは「解釈と投機の対象」になっていて、もうすでに「観る人を感動させる力」とは別のものが評価軸になっているのではないかと思っています。
 それは、僕が子どもの頃に観た『フランダースの犬』でのルーベンスの絵のような「アート」とは、同じ名前で呼ばれていても、全く違うものになっているような気がするのです。

 それが間違っている、というのではなくて、そういうのが好きな人にとっては、解釈ゲームもまた面白いのは確かなのだけれども(僕も嫌いじゃないです)。


 『ルパン三世』の映画第一作に『ルパン対複製人間』っていうのがあるんですよ。
その映画のクライマックスで、マモーが、ルパンに言うのです。


「君は 正真正銘、オリジナルのルパン三世だよ」


 僕はこの言葉が、ずっとずっと、引っかかっていて。
 全く同じ成分のクローンであれば、「オリジナルかどうか」っていうのは、「本人と周囲の見方と気分の問題」でしかないはずなんですよね。
 仮にクローンのほうだって、「オリジナル」だと言われれば「そうか」と頷くだろうし、オリジナルだって、「クローンだ」と言われれば、その間違いを証明する方法なんて、ありはしない。
 それでも、「オリジナル」って言われて、ルパンはホッとしたんじゃないかと思うのです。
 クローンのルパンのほうも、自分はオリジナルだと思いながら(あるいは、そんなことなど疑いもせず)死んだんだろうな、とか、考えたりもしながら。


 結局のところ、「思い入れ」みたいなものが人間にとってはすごく大きくて、モノをモノとして純粋に評価するのは、みんなすごく苦手なんじゃないかな。