いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

もし、『南極物語』と同じことが2014年に起こったら。

亡くなられた高倉健さん追悼企画でTV放映されていた、映画『南極物語』を観た。
この映画、ヴァンゲリスのテーマ曲はすごく記憶に残っているのだけれども、観るたびに、最後のタロ・ジロとの再会シーンが、案外あっさりしているなあ、と思う。
1983年の映画だから、演出のしかたが、今とは違っているのだろう。


ところで、今回、この『南極物語』を観ていて、ふと思ったことがあって。


タロ・ジロ他の樺太犬が南極に置き去りにされたのは、1958年の2月、タロ、ジロの奇跡の生存が確認されたのは、翌年・1959年の1月のこと。
いまから50年以上も昔の話で、僕もまだ生まれていません。
本やネットで調べた範囲では、当時、犬を置き去りにした観測隊は、世間から大バッシングを受けたようです。
映画で描かれていたことが100%の事実ではないのだとしても。


で、2014年にこの映画を観て、僕が思ったのは、「でも、この状況だと、『残酷ではあるけれど、当然の決断』だったのではないか」ということなんですよ。
犬たちは貴重な存在であり、隊員たちにとっては「仲間」ではあったけれども、人間を置いていくわけにはいかないし、研究の成果なども持ち帰らなければ、何のために南極で活動したのかわからなくなってしまう。
そもそも、好きで犬たちを置き去りにした隊員など、いるわけもなく。


でも、当時は大バッシングされたわけですよ。
「なぜ、犬たちを置き去りにしたのですか?」と。


今回、観ながら考えていたのは、「同じことが2014年に起こったら、世間は、観測隊を大バッシングしただろうか?」ということなのです。
もしもボックス」でもないと検証できない話なので、考えても答えなんで出ないのかもしれませんが、僕は、たぶん、1958年に起こったような大バッシングは起こらないと思うのです。
「悲しい話だけど、仕方がないよね……」
このくらいが、世間の反応ではなかろうか。


それだけ、2014年を生きている人たちは、さまざまな状況に関して、マスコミの報道を鵜呑みにするだけではなくなっているような気がします。
「そんな『しかたがない不幸な出来事』で、隊員たちを責めるな、このマスゴミ!」なんて声も、あがっていたかもしれませんね。


その一方で、1958年には、どうしてあんなに犬の命が重かったのか、ということも考えてしまうのです。
もちろん、動物の命を軽視してもいい、っていうわけじゃない。
助けられるものなら、助けたい。
とはいえ、あの状況っていうのは、「どうしても犬を助けようとすれば、ヘリが墜ちたり、宗谷に乗っていた人たちが遭難するリスクが高かった」のも事実です。
それくらいのことは、当時の人にも、理解できたはずじゃないのかなあ。


もしかしたら、まだ戦争の記憶が生々しい時代の人々にとっては、「南極観測の大義のために置き去りにされた犬たち」が、他人事とは思えなかったのだろうか。
戦争に駆り出されて、辛酸をなめた自分たちと重ねてしまわずにはいられなくて。


あるいは、現在の日本人は、そういう「役割のため、全体のために個が犠牲になる」ということを、50年前よりはプラスに受けとめるようになっているのかな。


人間は、50年前より賢くなっている、と言えるのだろうか?


(ちなみに、現在は、南極の生態系を守るために、南極への犬などの外来生物の持ち込みは禁止されているそうです。『南極物語』の事例では残されたのは雄犬ばかりだったで問題なさそうでしたが、もし雌雄混じった樺太犬たちが解き放たれて繁殖しまくったら、琵琶湖のブラックバスみたいになる可能性もあるのです)


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