いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

なぜ、羽生結弦選手は棄権しなかったのだろう?

 土曜日の夜、仕事から帰ってきて夕食を摂り、なかなか寝付いてくれない次男を抱っこしながら、テレビを眺めていました。
 フィギュアスケートのグランプリシリーズ第3戦の中国大会、男子フリー。
 『世界ふしぎ発見』かなー、などと思いつつチャンネルを回していると、「羽生にアクシデント」のテロップが。


 「アクシデント」って?


 僕はフィギュアスケート大好き、というわけではなくて、オリンピックが近づいてくるとそれなりに注目してしまう、というレベルのミーハーファンなわけですが、その「アクシデント」というのが気になって、中継を観ることにしたのです。


 しばらくして、その映像が繰り返し流されました。


 あの勢いで激突し、頭から流血し、顔にも傷が。
 激突した相手の中国の閻涵選手の演技をみていると、なんだか、絶望的な気分になってきて。
 これは、まともにフリーのプログラムを滑りきれるような状態じゃないはず。


 松岡修造さんは、何度も「棄権べきだ」と仰っていましたし、僕もそう思っていたんですよ。
 こう言ってはなんだけど、オリンピック翌年ということは、まだ次のオリンピックまで3年もあるのです。
 若手は今から実績を積まなければならないとしても、すでに金メダリストとなった羽生選手は、ここでトップギアに入れていては、次のオリンピックまでもちません。
 スポンサーのしがらみがある地元・日本の大会でもないし、ここで無理をしてフリーを滑るリスクに見合ったメリットがある状況だとは、どうしても思えない。
 これはオリンピックでも、その選考会でもないのだから。


 そもそも、不安な状態でジャンプをすれば、さらに大きな怪我を引き起こすリスクもあります。
 衝突した相手の中国の選手は、地元ということもあり、とりあえず慎重に、予定の演技をなぞってみせた、ように見えました。
 それが「当然」だと思います。
 いや、滑っただけでもすごいよ。


 ただ、僕のなかでは、「金メダリストの羽生だったら、衝突のアクシデントなんて無かったように、すごいジャンプとかをガンガン決めまくるのではないか」という期待も少しあったのです。
 ところが、実際に演技がはじまってみると、もう、観ていていたたまれなくなるくらい、羽生選手の演技はボロボロで。
 スピードは出ないし、ジャンプも予定通り回ろうとしているのだけれど、着地がまったく合わずにほとんど転倒。
 これはもう、「羽生結弦の演技」ができる状況じゃない。
 その一方で、足を怪我したわけでもないのに、あの激突の影響で、金メダリストでも、ここまで跳べなくなってしまうものなのか……と、フィギュアスケートの繊細さをあらためて思い知らされました。


 それでも、何度も立ち上がり、演技を続ける羽生選手。
 技術的には「論外」な演技であることは、誰よりも本人がわかっているはずです。
にもかかわらず、羽生選手は、最後まで滑り続け、跳んで着地しようとし続けたのです。
 怪我のリスクも承知のうえで。


 演技を終えたあと、リンクにはすごい数の花束が投げ込まれました。
 まともに歩くこともできず、ヨロヨロと戻ってきて、キスアンドクライになんとか辿り着いた羽生選手。


 結果は総合2位だったのですが、羽生選手の涙をみて、僕はずっと考えていました。
 これが「羽生結弦のスケート」ではないことは、本人がいちばんわかっているはずです。
 万全のスケートができないことは、少なくとも演技の途中で気づいていたはず。
 にもかかわらず、羽生選手は「あの状況下での全力を尽くす」ことをやめなかった。
 あんなにボロボロになって、怪我のリスクも顧みずに。


 なぜなんだろう?
 なぜ、羽生選手は棄権しなかったのだろう?


 冷静に考えれば、羽生選手があえて出場したことは「バカげたこと」なのではないかと思います。
 リスクとメリットを天秤にかければ「まだオリンピックはだいぶ先だし、ここで無理しないほうがいい」のは自明の理です。
 あのアクシデントで、この試合に「負けた」としても、羽生選手の評価が揺らぐこともない。


 本当に、なんで滑ったのだろう。


 そんなことを考えていて、僕は、元ヤクルトの伊藤智仁さんの言葉を思いだしました。

(『マウンドに散った天才投手』より。「」内が伊藤選手の発言です)

「みんなルーキーのときは同じように必死でやってますよ。ピッチャーはみんな自分の身を削って投げてます」


 酷使されたなんて思っていない。チャンスを与えられたから必死で投げる、ただそれだけ。自分の身を削って投げることはプロとして当たり前だ、なんでそんな質問をするんだ、とでも言いたげな口調で答える伊藤。


「今は球数制限が確立されてきたけど、当時は試合に勝つためにどのピッチャーを選ぶかということが優先され、平気で200球近く投げているピッチャーはいました。一番球数が多いのが193球。二試合分ですね。今では延長戦で投げるピッチャーもおらず、投げても7回まででしょ」


 200球近く投げさせられたことでさえ、あの時代はそうだったと納得している。むしろ、無理矢理納得しているようにも見えた。最後にまたしつこく質問してみた。


ーーまったく後悔はしていないですか?


「もうしょうがないですね。ヘタに手を抜いて二軍選手で終わるよりも一瞬でいいから活躍したほうがいい。プロ野球選手は一年一年が勝負ですよ」

 

 しょうがない……伊藤は何がしょうがないと言っているのだろうか。怪我したこと? それとも自分の思い通りに活躍できなかったこと? 現役を続けたかったこと? 一年一年勝負をかけての結果が、「しょうがない」ではけっしてないはずだ。


「もし怪我がなかったらとか考えたことがない。痛みがないときなどなかったので現実を受け止めて、この怪我とどうやって付き合っていったらいいか、どういうトレーニングをしたらよくなるかを試しながらやってました。これもピッチャーとしての野球人生だと思ってました」


 羽生選手はフィギュアスケート、伊藤投手は野球だけれど、アスリートというのは「いま自分が出場している試合、やっている演技、投げている球に、とにかく全力を尽くさずにはいられないという習性を持つ人々」なのかもしれません。
 そういう人じゃないと、超一流にはなれない。
 「ここは手を抜いていいんじゃない?」と外野は思うけれど、彼らの「アスリートの魂」みたいなものは、それを許すことができない。


 今回の羽生選手の強行出場は「無謀」だと僕は思います。
 これを絶賛するような風潮が蔓延するのは、選手たちの心身を守るうえで、危険きわまりない。
 「棄権すべきだ」と言った松岡修造さんは正しい。
 羽生選手のあとに滑りきって優勝したコフトゥン選手に「こんな異様な雰囲気のなかで、やりにくかったと思う」という言葉をかけていた織田信成さんも「選手目線」でした。
 ライバルとはいえ、同じ競技でずっとしのぎを削っている「仲間」でもあります。
 コフトゥン選手は、F1で、仲間の大きなクラッシュのあとにレースを続けるような心境だったのではないかなあ。


 ああいう「無謀な挑戦」に感動し、称賛することには、選手たちの「無理」を助長するリスクがあります。
 羽生選手も、強行出場の代償として、選手生命に関わるような怪我をしてしまう可能性がありました。


 それでも、僕はこの羽生選手の演技に、圧倒され、胸が押しつぶされそうになったのです。
 痛々しかったけれど、なんだかとても神々しくもあったのです。
 転んでも転んでも起き上がる、金メダリストの姿は。
 そう、「感動した」「泣けた」というより、「なんだかすごいものを観た、目の前にリンクがあって観客がいれば、滑らずにはいられない『アスリートの魂』みたいなものを見せつけられた」のだよなあ。


 ヤンキースの黒田投手は、登板の際、いつも「これが最後のマウンドになっても構わない」という覚悟をしてマウンドに上がるそうです。
 羽生選手も、そうなのかもしれません。
 「こんなところでリスクを冒さなくても……」などと、彼らは考えない。
 彼らには「こんなところ」なんて、無いのだから。


 いやほんと、すごいものを観た。
 浅田真央選手のソチオリンピック2日目の演技のあとの、このツイートのことを、思いだしてしまいました。


 ああ、でもやっぱり、もう一度同じ状況になったら、今度は、誰かがちゃんと止めてあげてほしい。
 伊藤智仁投手に対しても「誰かが止めてくれていたら、あのスライダーをまだまだ見られたのに……」って、何度も思ったから。
 たぶん、自分自身では止められないものなのだろうから。



マウンドに散った天才投手

マウンドに散った天才投手