いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「家族の問題」について

参考リンク(1):後から言うのは簡単 「ソッコーで仕事を辞めるべき!」(Chikirinの日記)


上記エントリを読んで、そうだよなあ……と考えずにはいられませんでした。
結果をみれば「そんなことになるのなら、すぐに仕事をやめて対処すべきだった」としか言いようがなくなってしまうのですが、現実的には「辞めたくても替わりがいない」とか、「社員や研究員など、他人の人生を巻き込んでいる」という状況だと、「いきなり投げ出す」のが難しい状況だってあるわけです。
こういうのって、すべてを投げ出すことにって、未然に悲劇が防がれていれば「あんな無責任なことしやがって」「もっとちゃんとしてから、仕事を離れたほうがよかったんじゃないの?」とか、言われがちなんですよね。


僕がこれを読んで、佐世保の事件について感じたのは「家族」の怖さ、みたいなものでした。
もし、加害者の女児が金属バットで殴って重症を負わせたのが「赤の他人」であれば、これはもう、その時点で「事件」になっていたはずです。
警察に留置されるか、あるいは「自傷、他傷の危険性あり」ということで、精神科の病院に「隔離」されることになったでしょう。


ところが、相手が「父親」だったから、そうはならなかった。
父親にとっては、娘への愛情と「いつ自分に襲いかかってくるかわからない同居人」への恐怖で、どうしようもなかったんじゃないかな。
「親の教育が悪かったのだから、親の責任で、なんとかするべき」と考える人もいるかもしれないけれども、この状況になってしまえば、説得が通用するとも思えないし、「やられる前にやれ!」みたいな「解決法」しか僕には思いつきません。


「家族」であるがゆえに、世界から「隔離」されてしまう、という怖さもある。
「家族内での問題」には、自力で立ち向かわなければならない、という思い込みや圧力もある。


参考リンク(2)【読書感想】家族喰い――尼崎連続変死事件の真相(琥珀色の戯言)


この本を読んでいていちばん怖くなったのは「家族」という関係の怖さでした。
角田美代子は、自分に都合のいい「イビツな家族」をつくりながら、外部に対しては「これは家族内の問題だから」ということで、干渉されないようにしていたのです。
どんなに肉体的、精神的な暴力がふるわれていたとしても、それが「家族内」あるいは「親族内」であれば、警察はあまり介入したがりません。
同じ暴力であっても、それが身内のあいだで行われていれば、警察は「民事不介入」の立場を取りがちなのです。

 明石警察署で斉藤さんは、茉莉子さんが「捕まったら殺される」と話していたこと、捜索願を出していた追手が実際に更新センターにやって来たこと、やって来たのはヤクザで、苗字が違うから家族ではないということを説明した。

「そうしたら相手の警察官が『捜索願を出せるのは家族だけやから』と。だから私は『頼むから、ひとりでいいから警察官が来てくれたらいいんやから、なにもないならそれに越したことないわけやし』と、人目も憚らずに泣いて頼みました。一生でいちばん人にお願いをしたくらい、頼んだんです。だけど、『民事不介入やからよう行かん』と断られてしまったんです。応対したのは4、50代の警察官でしたけど、『いまの若い子はみんな、捕まったら殺されるって言うねん。家出した子はみんなそうや。でも殺されへん。時間が経てば家族のわだかまりは消えるもんや』と言いました。もう悔しくて悔しくて、私も友達も二人とも泣いていました」


実際のところ、警察にだって、「夫婦喧嘩や家族内での諍いにまで干渉している人的余裕はない」のでしょう。
それも、わかるんだけど。


「家族」のセーフティネットとしての役割が、昔に比べてかなり弱まっているのに、「責任」は、残っている。
自分のことに関しては「家族だからって、全部責任を押しつけられても……」と思うのに、他人のことだと「家族のくせに、なんで何もできなかったんだ!」と感じてしまう。
「家族」って、重い。



家族喰い――尼崎連続変死事件の真相

家族喰い――尼崎連続変死事件の真相

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