いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

人間にとって「ゆるす」って、何なのだろう?

一昨日だったかな、『さよなら渓谷』って映画のDVDを観ました。
なんか『ゆれる』みたいなラストだなあ、なんて思いつつ(両方とも真木よう子さんが出演しているから、なのかも)エンドロールを眺めていたら、この「参考リンク」のエピソードが頭に浮かんできました。


参考リンク:嫁がスーパーフリーのメンバーだったことが判明した - 既婚者の墓場


このエントリ、「釣りっぽい」し、フィクションなのかもしれないけれど、「人は、他人の過ちをゆるすことができるのか?」について考えさせられる話ではあります。
『さよなら渓谷』とは状況も全然違うんですけどね。


ただ、どちらも、「人間にとって『ゆるす』って、何なのだろう?」と考え込んでしまうところは、共通しているのです。


もし妻に(あるいは夫に)「スーパーフリーの一員だった」というような、「過去」があることを、家族になった後、知ってしまったら?


この「参考リンク」では、「どうしても過去の過ちをゆるせない夫」が主人公となっています。
でも、これって、事実がどうあれ、知らなければ、夫は、何も変わらず、家族として接して生きていけたはず、なんですよね。


スーパーフリー」のような組織の幹部で、ああいう犯罪を率先してやっていた人間であれば、弁解の余地はないかもしれない。
ただ、中枢ではないところにいて、なんとなく嫌な噂は聞いていても、その組織の一員として、「自分の役割」を果たしただけ、というような人間の罪は、はたして「ゆるされないもの」なのだろうか?
逆に、間接的にでも、この妻のせいで被害に遭った人がいる以上、「そのくらいなら、ゆるしてあげれば。本人は反省しているし、子供の母親でもあるのだから」なんて言えるものなのか?


考えてみれば、ナチスホロコーストなんて、「間接的に加担した人」「加担したわけではないが、黙認した人」まで含めれば、「罪のない者」など、被害者以外には、いないはずです。


そこまで話を大きくしてしまうと、とりとめがなくなってしまうのだけれども、世の中には「真面目に反省しようとしたからこそ、かえって、自分自身を苦しめてしまう場合もある」のかもしれません。
根っからの悪党は、被害者の感情なんて「わからない」し、「あいつも俺も運が悪かっただけだ」あるいは「こんな世の中が悪い」などとうそぶいて、しぶとく生き延びていたりもします。
あの頃は若かった、とか「あの時期の性欲って、コントロールできないもんね」とか、武勇伝みたいにしてしまう人さえいる。


僕は自分から率先して「スーパーフリーのようなこと」はやらないと思う、いや思いたい。
しかしながら、いきなり知人や自分の組織の人がそんなことをはじめてしまった現場に投げ込まれて、「みんなやめろ!」と押しとどめたり、警察に通報したり、できるだろうか……
いや、こういうのこそ「そうするんだ!」と常日頃から、固く決心しておかなければならないのだろうけど、あまり自信がありません。


こういうのって、物語とか、ネット上の意見では、「ゆるす」「ゆるさない」の二元論みたいな話になりがち、なんですよね。
でも、現実においては、そんなにシンプルに感情を運用できないというか、「許してもいいかな」「それはそれで、家族として自分はその人を守る」という気持ちに針がふれることもあれば、「やっぱり生理的にダメ」「ゆるすことはできない」に傾くこともあり、それを繰り返しながら、どちらかに着地する、ということになるはずです。
で、ゆるすことにしたものの、負の感情がフラッシュバックしてきたり、ゆるさなかったけれど、「それは自分の狭量なのではないか」と後悔してみたりで、結局、「なかったこと」になど、ならない。
それでも、人は、生きると決めたあいだは(あるいは、生きていられるあいだは)、生きていかざるをえない。


そんなことに悩まなくてもすむ人生というのがベストだとは思うのですが、「ゆるすことができにくい」理由には、「傍観者の視線」の問題も大きいんですよね。
人は、加害者のみならず、被害者の側も「穢れたもの」としてみてしまいがちだから。


観ると本当にしばらく何をするのもイヤになってしまうような映画ではあるのですが、『さよなら渓谷』おすすめです。


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さよなら渓谷 (新潮文庫)

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ゆれる [DVD]

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