いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

なぜ、彼の敵は、『黒子のバスケ』の作者だったのだろう?

参考リンク(1):心に引っかかっていた、そのこと、その一つ: 極東ブログ
参考リンク(2):その問題で思った、もう一つのこと: 極東ブログ



参考リンク(1)(2)を何度も読み返しながら、ずっと考えていました。
(以下を読む前に、ぜひ、これを読んでいる人にも目を通していただきたいと思います)


なぜ、彼の敵は、『黒子のバスケ』の作者だったのだろう?


「嫉妬」であるとか「何かを道連れにしようと思ったとき、偶然目についたのがこの人だったから」というような理由が述べられていますし、もしかしたら、ここでは語られていないけれども「歪んだファン心理」みたいなものがあったのかもしれません。
でも、やっぱりなんだか、よくわからない。


極東ブログ』に、容疑者のこんな意見陳述が紹介されていました。

カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。


僕にはわからない。
なぜ、彼は「統治権力」と闘わなかったのだろうか?
彼が「何でも持っている、自分とは格差がありすぎる存在」と言っていたマンガ家は、たしかに「成功者」ではあるけれども、毎週締め切りに追われてマンガを書き、人気投票の結果に怯えている「ただの人」でもあります。
そもそも、彼がどうなろうが、この容疑者の人生が詰んでいる状況が、変わるわけでもない。
お金目的の脅迫なら、理解はできるのです。
お金を持っていそうな人を狙うのは、当然のことだから。
でも、これが「テロ」であるのならば、なぜ、その対象は、自分を追い詰めている一端である「統治権力」ではなかったのだろうか?


僕はネットでいろんなものを書いてきて、あるいは、他の人が書いたものへの反応をみていて、ずっと疑問に感じていたことがあって。
たとえば、以前、『はてな匿名ダイアリー』で、東日本大震災原発事故後の福島県内での「地域内格差」について書いていた人がいました。
「ああ、地元の人には、こんなふうに見えているのだな」と思いながら読んでいたのですが、そこにつけられたブックマークコメントには「それはお前の主観」「デマを流すな」「放射脳」などの罵倒が並んでいました。
その場にいる人間の不安が、まっすぐに表明されていた、それだけのエントリだったのに。


結局、そのエントリは、すぐに消されてしまいました。


夫婦関係などについて書かれたものでも、「これを書いているお前が悪い」という反応が目につくことが多いのです。


ネットで目立ってきたひとつの大きな「歪み」というのは、何がいちばんの問題なのか、あるいは原因なのかを考えるのではなく、とにかく「苦しんでいる姿が見える相手を責めたがる人」が増えてきたことなのではないかなあ、と。
ブックマークコメントとか、ブログのコメント欄は、そのエントリを書いた人が、目を通している可能性が高いのです。
それに対して、政府や社会や権力者をいくら批判しても、相手から目に見えるリアクションがすぐに返ってくることは、まずありません。
その一方で、反応が無いことがもどかしくなるのか、政府とか政党とか他国に関して、事実無根の罵詈雑言を際限なく浴びせている人もいます。


そんなに、誰かが苦しむ姿が見たいのか?
世の中を少しでも良くするよりも、嫌なヤツが苦しんでいる姿を見るほうが、優先順位が高いのか?
どうせ、世の中なんて、何をどうやっても良くなんてなりはしないのだから、せめて、いい気になっている連中をたたき落として、ざまあみろ、と言いたいのか?


ネットには、こういう「目に見える相手をいたぶりたい人」や「反応がなければ、何を言ってもいいと思っているような人」を「そんなのやめておけ」と諭す人は、ほとんどいません。
(ブログのコメント欄などで「諭す人」があらわれると、かえってそこでエントリを書いた人の頭越しに罵り合いが始まったりして、混迷を深めてしまう、という現実もあります)
実際は、「常識的な人」は、そういう当たり前のことを、あえてコメント欄に書いたりしない、のでしょうけど。
あるいは、書いたとしても、すぐに埋もれてしまう。


ネットでは、この「『黒子のバスケ』脅迫事件」の容疑者に対して、「気持ちはわかる」「オレも似たようなものだ」などと「共感」を表明する人も少なくありません。


いや、「詰んでいる人」は、いっぱいいますよ、僕だってそうだ。
でもさ、自分が詰んでいるからって、何の関係もない人を、道連れにして死ぬ権利なんて、誰にもありません。
自分が道連れにされたら、どうする?


僕が怖いと思うのは、この容疑者は、おそらく「この自分の陳述に共感する人が、少なからずいるはずだ」と予想しており、たしかにそうなっている、ということなのです。


「閉塞感」は、わかる。
でも、だからといって、あんな脅迫は許されない、許してはいけない。
「閉塞感を感じていること」は仕方がない。
それでも、「その怨念を他者にぶつけることの正当性」を認めてはならない。


その怒りを向ける対象も、怒りを表明する手段も間違っている。
でも、この劇場では、そういう物語のほうが、好まれる。
デモに参加する人は「そんなことやっても世の中変わらないよ」と嘲笑されるのに、ネットで他人をうまく罵倒した人が、称賛を集めることもある。



……とか書きながら、僕自身も、「何者にもなれない病」の一員ではあるのです。
シロクマ(id:p_shirokuma)さん、本とかも出してすごいなあ!もはやネット文化人じゃないですか、なんて嫉妬してみたりすることもある(あくまでも「わかりやすい一例」として名前を挙げさせていただいたので、悪意はないです。というか、僕は僕の選択として今こうしていることは自分でもわかっているつもりなのだけれども、そういうことを、ふと考えてしまうこともあるのです)。
ちょっと引いて考えてみれば、僕がいま抱いている、それほど深刻ではなさそうな閉塞感は、シロクマさんのせいでは、まったく無いわけで。
で、こういうのを「世の中が悪い」じゃなくて、具体的に「ブロガーの○○が悪い!」って言ってしまったほうがウケるんだ、少なくともネット上では。


参考リンク(2)で、finalventさんが書かれていた話なのですが、そういうふうに「コップの中でやりあってくれて、誰が得するか?」というと、結局のところ、そのシステム全体を握っている者、ゲームマスターなんですよね。


萱野稔人さんと雨宮処凛さんの共著『生きづらさについて』のなかに、こんな話が出てきます。

萱野:下へ下へと向かう圧力については、フランスにも似たような現象があります。


 たとえば、まえにもお話しましたが、フランスで移民排斥を唱える極右政党の支持者の多くは、移民と同じ地域に住み、同じような生活環境のもとで暮らしている貧困層です。


 貧困層にとってみれば、生活保護などの社会保障は唯一の頼みの綱ですよね、でも、日本と同じようにフランスでも福祉や社会保障の予算はどんどん削減される傾向にあって、年々、受給資格は厳しくなるし、受給額も少なくなっています。貧困層にとっては厳しい現実です。しかし彼らは、そうした現実を移民のせいだと考えてしまう。自分たちがもらうべき社会保障を、本来はもらう権利のない外国人の移民たちが不当に横取りしている、だから自分たちがもらう分が減っているんだ、と。


 つまり彼らは、自分たちの生活を守るために、移民という、より不利な立場におかれている人たちを排除することに向かうわけです。


 ちなみにフランスの場合、いまの時代をよくあらわしていると思うのは、そうした移民排斥が「セキュリティをむしばむ外国人」というイメージとむすびついているところです。日本でもしばしば「治安が悪化したのは外国人犯罪の増加のせいだ」というようなことがいわれますが、フランスではそれが社会保障の問題にもかかわっているのです。


(中略)


 2005年の秋にフランスで大規模な暴動が起こりましたよね。そのとき車がたくさん燃やされました。でも、あの燃やされた車のもち主って、隣に住んでいる貧困層なんですよ。


雨宮:ベンツなどの高級車ではなく。


萱野:そう。中古の中古みたいなものを何年ものローンでやっと買ったのに、それが暴動で燃やされてしまった。


雨宮:そこの町全体が貧困地域ということですね。


萱野:そうです。燃やされてしまったほうが、いきおい移民に反感をもちますよね。で、治安(セキュリティ)を守るために移民を排斥せよ、という声が貧困層からさらに強く出されるようになる。


 ただこれはちゃんと確認しておいたほうがいいのですが、あのときの暴動って、フランス全体で見ると白人系のフランス人もかなりそこに参加していて、「移民の暴動」と考えるのは本当はまちがいなんですよ。でも現実には「移民の暴動」というイメージが流布し、それが貧困地域における「白人」対「移民」という人種的な対立へと帰着してしまった。


 統治する側からすれば、こういうふうに「下層どうしで対立することにエネルギーを使ってくれて、支配層に不満が向かってこない状態」というのは、ある意味「好ましい」はずです。
 正社員と派遣社員が協力して、会社への不満を訴えてくるよりは、お互いに適度に反目しあって、不満をぶつけあっているほうが、上層部にとってはマシであるように。
 もちろん、あまりに対立が深刻になりすぎて、社会運営や事業に支障をきたすようになっては、どうしようもないのだけれども。

 
 もしかしたら、(僕も含めて)大部分の人にとっては、「実際に世の中で起こっていること」と、『ドミニオン』の中で起こっていることって、そんなに大きな違いは無いんじゃないか、とも思うのです。
 それが、自分に直接関係するようなことにならない限りは。
 自分が被害を受けないのならば「真っ当だけど、つまらないこと」よりも、「他の誰かが犠牲になっても、面白いこと」のほうがいい。

 
 ネットの力によって、僕たちは、覚悟も痛みもないまま、現実に起こっていることに、簡単にコミットできるようになってしまった。
 でもさ、「コミットできている」というのは幻想でしかなくて、もしかしたら、こういう姿を「適当にガス抜きさせておいて、働けるだけ働かせて、使い捨ててやろう」とほくそ笑みながら見ている人が、いるのかもしれません。
 
 どんなにプレイヤー同士が傷つけあっても、ゲームマスターは、傷つかない。


 ただ、今の世の中の「本当のゲームマスター」って、何なのかと考えると、わからなくなってもくるのです。
 首相とか経済界の偉い人、というのも、ちょっと違う気がするんだよね……



「生きづらさ」について (光文社新書)

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