いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

もう一度、『なぜ今、ブログなのか』

参考リンク:『なぜ今、ブログなのか』(jkondoのはてなブログ 2011-11-19)


まずは、この参考リンクを、まだ読んだことがない人はぜひ一度は、既読の人も、もう一度読んでみていただきたいと思います。


はてな』の近藤社長のブログのこのエントリが世に出て、『はてなブログ』が本格的にスタートしてから、もう2年以上になるんですね。
年のせいか、時間が経つのは早いなあ、と感慨にふけってしまいます。
このエントリが発表されたとき、実は、ブログというのは「斜陽(あるいは「オワコン」という言葉を使ったほうがわかりやすい人のほうが、いまは多いのかもしれませんね)」だという声がかなりありました。
SNSも、mixiは低迷気味で、より即時的なやりとりが短い文章でできるTwitterや、実生活とより地続きなツールとしてのFacebookが主体となりつつあった時期のことです。


あのとき、ここで近藤さんが、『ブログ』の存在意義をあらためて問いかけてこられたことに、なんだか少し嬉しくなったのを思いだします。
僕はTwitterもけっこう頻回に利用していますし、ちょっと時間が空いたときに眺めたり、自分の思いつきを投稿し、気軽なやりとりをしたり、書いたもののちょっとした宣伝をするためには、すばらしいツールだと考えています。
ただ、ちょっと面白そうなことを考えて、Twitterに投稿して、反応をもらって、それに返事をして……ということを繰り返していると、すぐに1時間くらい経ってしまうことがあるんですよね。
そのあと、「なんとなく人と繋がっていた」という安心感、あるいはやりあっていた緊張感みたいなものは残るのだけれど、何年間、いや何ヵ月間、もしかしたら数日間程度でも後に残っていくような、まとまった思考をTwitterで遺していくのは難しいのだよなあ、と、いつも少し寂しくなります。
もちろん、その場が楽しければいい、というのはあるし、後腐れがないからいい、というのもある。
Twitterでだって、いわゆる「バカッター」で一生棒に振る可能性だってあるし、「まとめ」で一塊にされ、多くの人に参照さえるツイートだってあります。
ただ、あれはどうしても「基本的には、流れて消えていくのが前提の、リアルタイムのコミュニケーション」なんですよね。

しかし、つぶやきだけが文章ではありません。どうしても140文字では表現できない内容があります。
たとえばこのブログがまさにそうです。こうやってまとまった量の考えを、つぶやきで表現するのは至難の業です。


「フロー」と「ストック」という概念があります。フローはどんどん流れていきます。ストックは長く生き残ります。
twitterはフローです。ブログはストックです。
まとまった考えを書いたなら、後からでも見てもらえるようにストック側に残しておきたいものです。


そんな難しい内容ばかりではありません。たとえば旅行の記録は、写真と文章をまとめて残しておきたいわけです。子供の成長を毎日育児日記に記録したりするにはブログが必要になります。
コミュニケーションツールの分離によって、ブログの役割が、より明確になりました。
まとまった量の文章や写真を表現するためのツールになりました。
改めて、その役割が明らかになりました。

 実際は、ブログのエントリだって、「未来に読み返されるもの」は、ごくごく一部ではあります。
 ずっと書いている僕だって、アップロードしたあと、二度と読み返していないエントリだってあります。
 ただ、そうであるのだとしても、ブログというのは「記録を積み重ねていく喜び」みたいなものがあるし、「ストック」を増やしていくことによって、その一部であっても、どこかの知らない誰かの役に立ったり、「ああ、自分と同じような人がいる」と、思ってもらえることがあるかもしれない。
 もちろん、書いている本人にとっては、これ以上の「アルバム」はないはずです。
 40歳を過ぎて思うのは、「人って、悲しいほど、自分の人生の過ごし方や、何を考えてきたのかを覚えていない」ってことなんですよね。
 自分の子どもと接していると、「ああ、自分は今、子ども時代にされて嫌だったことを、自分の子どもにしている」ということに、突然気付いて愕然とすることもあるのです。


 この2年前の近藤さんの言葉は「ネット上に、(あまりにも反社会的なものでなければ)個人個人が自分を表現できる、あるいは、大事なものをとっておける宝箱のようなプライベートな空間を、もう一度つくりだしたい」ということではないか、と僕は思うのです。
 大人にだって、知らない誰かが、ときどき覗き見してくれるくらいの「秘密基地」が、あっても良いんじゃない?


 おそらく、今でもそうやって使っている人が大勢いるんだとは思うんですけどね。


 いまのブログでは、「読まれたい」「お金を稼ぎたい」という人の言葉ばかりが目立ちやすくなってしまっているのです。
 いろんなブログサービスを試してきたけれど、いまの『はてなブログ』は、「ゼロからはじめた無名の人が、多くの人に読んでもらうためのハードル』がこれまでの日本の歴史上のブログサービスのなかでは最も低い(ブレイクしやすい)と思います。
 その「読まれやすさ」は、ブログサービスとしては大きなメリットなのだけれども、それが、近藤さんが当初ターゲットとしていたような「まとまった文章を書きたい人」「ライフログを遺したい人」へのアピールにつながっていないようにも見えるのです。
 ブックマークなどでけっこう厳しい反応が目立ちやすいから、「初心者には怖そう」だとも思われがち。
(まあ、実際に「怖い」というのも否定できませんが)


 『はてなブログ』って、ある意味「読んでくれる人を早い時期に集めることに優秀すぎて、書いている人を舞い上がらせすぎている」ようにも感じるんですよ。
 本来のブログの魅力は「ストック」だというコンセプトでスタートしたはずの『はてなブログ』なのに、一過性の人気や収入を目的とした「フロー」を重視しているブログのほうが目立ってしまう。
 あるいは、多くの人に読まれる快感を知ることで、多くの人が「フロー」に流れてしまう。
 それは誰が悪いというより、結果としてそうなっている、ということなのでしょうけど。
 

 「ブログ開始3ヵ月の人の『ブログ論』」とか、「ブログを1ヶ月やってわかった『ブログをずっと書き続ける秘訣』」とか、「えっ?」って思うもの。
 僕もネット上で長い間書いているので、そういう「ブログ論」みたいなものを書きたくなるのはよくわかりますし、少なからず実際に書いてもいます。
 まさに自分自身の「黒歴史」を辿るようなもので、読んでいて、けっこう胸が痛みます。
 いったい誰が『今年プロ野球に入って、二軍の試合で初ヒットを打った俺の完璧な打撃理論』なんて本を、苦笑せずに手にとることができるでしょうか?
 あるいは「結婚1年経ってわかった、『結婚生活をずっと続けるためのたったひとつのコツ』」という本を。

 それが1回、2回くらいなら微笑ましいのだけれども、ネタが無いのか、そういうのが「人気コンテンツ」だと思ってしまうのか、ずっとそんなことばっかり書くようになってしまう人がいたら?


 いや、その打撃理論はもう聞き飽きたから、まずはそれを一軍の公式戦で実践して、ヒット打ってみせてくれよ……
 
 宣伝の仕方も大事ではあるんだろうけど、いくら宣伝してお客さんに来てもらっても、店の商品に魅力がなければ「もうこんなところには二度と来ない!」って、かえって嫌われるだけですよ。

 
 ……それが、昔の僕にもわかっていれば、よかったのだけれどもねえ。
 ただ、お金とかそういうのじゃなくて、書いても書いても1日6HOTとかで、とにかく誰かに読んでほしい!と、あがいていた時期って、いまから思い返してみると、「いちばんアツくて、楽しい時期だった」かもしれません。


 いまの僕の実感としては、ブログに「書き続けるための秘訣」なんてものは何一つないのです。
「毎日やめられなくて、やめる機会がなくて続けていたら、いつのまにかこんなに時間が経っていた」だけのことです。
 なぜ続いたのかなんて、本当のところ、続けた人にだって、わからないことが多いのではないかなあ。


 僕は以前、ある日記マニアの作家が書いていたこんな話が忘れられないのです。
(僕の記憶に基づいて書いていますので、詳細はたぶん違います。「だいたいこんなニュアンスの話だった」ということでご容赦ください)

 江戸時代に「記録マニア」の男がいて、彼が東海道を旅した際、ずっと日記をつけていた。
 その日記の内容には、彼の主観みたいなものはほとんど書かれておらず、「宿場から宿場まで何万何千何百何十何歩で歩いた」とか、「休憩のときに寄った茶店の団子の値段がいくらだった」とか、そういう細かいデータが延々と記録されていた。
 この「何の面白みもない数字の羅列」が、後の江戸時代の研究者にとっては、当時の物価や生活様式を知る、宝の山となったのだ。

 こういうことは僕にはできませんし、別にみんなが真似することもない。
 でも、こういう「何が目的なのだかよくわからないような単なるデータの塊」が、後世の人に感謝されることもあるのです。
 よほどの有名人や哲学者でもないかぎり、「ひとりの人間の感情の記録」が読み流されてしまうのとは対照的に。
 歴史というものをあらためて考えていくと、100年前の「普通の人の日常生活」なんて、わかっていそうで、全然わかっていなかったりするものです。
 もしかしたら、これから100年後の人は、ブログとかSNSのログをみて、いまの時代のことをより詳細に知ることができるのかもしれませんね。
 Facebookのログをみて、「2014年の人類は、こんなにみんな美味しそうなものを食べて、旅行に出かけ、幸せそうにしていたのか……」と。
 ああ、そんなことを考えてみると、歴史っていうのは、「記録されているものしか後世に伝わらない」という時点で「偏り」から逃れられないのかな、なんて感じたりもするのですが。


 長いのでたぶんここまで読んでいる人は10人いるかいないかくらいだと思いますが、とりあえず、ブログっていうのは、あんまり焦らずに付き合っていくほうが楽しいのではないかと僕は考えています。


 少なくとも、SNSよりブログのほうが向いている人というのは、いると思うのですよ。


 みんながSNSに向かっていって、ブログを書く人が減れば減るほど、ブログの記事の価値は相対的に上がっていきますしね。
 SNSが拡散するもののなかには、ニュースや、画像や、ブログのURLが多く含まれているのだから。


 ブックマークも、アクセスも、炎上も、結局のところ「他人しだい」なんですよ。
 渾身のエントリでも誰もブックマークしてくれないことはよくあるし(というか、こちらが「これは気合いを入れて書きましたっ!」とズイズイ迫っていくほど、読む人は引いてしまうのではないかと思うようになりました)、同じ内容でも、タイトルとかタイミングで、全然読まれ方が違ってくることもある。
 炎上にしても、「万人に嫌われない言葉」というのは、たぶん、誰の心にも響かない。


 そもそも、「他人の反応を完璧にコントロールすること」なんて、誰にもできない。


 宇宙飛行士の古川聡さんが、『宇宙飛行士に学ぶ心の鍛え方』という新書のなかで、「ストレスに対応するため」の考え方のひとつとして、こう書かれていました。

 しかし、成果が見えない中で続けるというストレスに耐えるのは、簡単なことではありません。宇宙飛行士の訓練ではストレスに耐えられるかどうかというよりも、仕事でそれを使うわけですから、そこは割り切ってやるしかありません。そうではない方は、どうすればよいか。
 単純に言えば、「割り切る」そして「できることをやる」の2点です。元プロ野球選手の松井秀喜さんは、「自分にコントロールできること、できないことに分けて考え、できないことに関心を持たない」そうです。私も「自分がコントロールできないことを心配しても仕方ない。自分にコントロールできること、自分にできることをやればいいんだ」と思います。

 結局のところ、コントロールできないものを取り除いていって最後に残るのは「自分と、自分が書いたもの」だけなんですよね。
 他人がどう評価しようが、書いたものはそこにあって、揺らぐことはない。
 だから、「自分が満足できるものを書ければ、それでいい」。
 

 自分でコントロールできないものに「やりがい」を委ねるのは、あまりにもキツいことなのです。
 僕が他人の思うように動かないのと同様に、他の人も僕が思うように動いてくれるはずがないのだから。



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