いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

阪神淡路大震災から19年。「もう昔のこと」になりかけているからこそ。

参考リンク:阪神淡路大震災で被災してから19年経った私の記憶 - 24、♀、NEET脱出(予定)


あれから、もう19年になるんですね。
僕は直接被災したわけではないのですが、この文章を読んで、あの時代に生きていた人間のひとりとして、何か書いておこうかな、と思いました。


まず、今から9年前、「朝日新聞」の2005年1月17日号、「特集・阪神大震災10年」に掲載された村上春樹さんの文章の一部を御紹介します。


(1995年の1月に、村上さんはアメリカ・マサチューセッツ州のケンブリッジにおられたそうです。そして、テレビでこの「廃墟と化したどこかの都市の風景」を観て、そしてほどなく、それが、見覚えのある、子ども時代から高校時代を過ごした風景であることに気がついた、ということです。)

 だから言うまでもなく、まるで空襲を受けたあとのような神戸の街の光景を、テレビの画面で唐突に目にして、強いショックを受けることになった。両親や友人たちがそこに暮らしていたこともある。彼らの安否ももちろん心配だった。しかしそれと同時に、街の崩壊そのものが、その痛ましい情景自体が僕にもたらした衝撃も大きかった。自分の中にある大事な源(みなもと)のようなものが揺さぶられて崩れ、焼かれ、個人的な時間軸が剥離されてしまったみたいな、生々しい感覚がそこにあった。
 でもそれと同時に、僕は自分が既に、その街にとってただの傍観者でしかなくなってしまていることを実感しないわけにはいかなかった。神戸の人々が1月17日の朝に感じたはずの激しい振動を、僕は感じてはいない。それはむろん当然のことといえば当然のことである。「彼ら」は、現実に神戸にいて、僕は現実にそこにいなかったのだから。それでも僕は何かを物理的に、肉体的に感じなくてはいけないのではないか――切実にそう感じた。


(中略)


 でもそれは簡単なことではなかった。自分が小説家として何をするべきなのか、そのイメージをつかみ、納得のいく方法を設定するまでに、思ったより時間がかかってしまったのだ。僕が『神の子どもたちはみな踊る』(雑誌連載時のタイトルは、『地震のあとで』)という短編小説集を書き始めたのは、地震から4年を経た夏のことだ。この連作短編は、失われた僕の街とのコミットメント回復の作業であると同時に、自分の中にある源と時間軸の今一度の見直し作業――(僕はそのとき50歳になっていた――)でもあった。その6編の物語の中で、登場人物たちは今もそれぞれに余震を感じ続けている、個人的余震だ。彼らは地震のあとの世界に住んでいる。その世界は彼らがかつて見知っていた世界ではない。それでも彼らはもう一度、個人的源への信頼を取り戻そうと試みている。


(中略・この『神の子どもたちはみな踊る』という作品が、ちょうど9・11事件の少しあとにアメリカで翻訳出版され、村上さんにとっても予想外なくらい、アメリカ人の読者から「この本を読んで、今の自分の心に深く感じるところがあった」という反応があった、ということを受けて)


 人為テロと自然災害という差異はあれ、巨大なカタストロフのあとの感情的源の損傷と、その回復への努力という点においては、精神的に分かち合われるべきものは少なくなかったのだろう。物語という通路をとおして、ある場合には我々は静かに心を結び合うこともできる。物語にできるのは、それくらいのことでしかないのだが、それはおそらく物語にしかできない種類の心的結託ではあるまいか、と僕は考えている。というかそれが、この10年ほどのあいだに小説家としての僕がたどりつくことになった地点なのだ。


 僕は以前、ある有名な作家が「村上春樹は神戸に住んでいたのに、どうしてオウムの事件については『アンダーグラウンド』などで書いているのに、『あの震災』について何も書かないのか?」と評していたのを読んだ記憶があります。ここに書いてあるのは、その「書けなかった理由」についてでもあり、また、「間接的な震災体験」を通して辿りついた、村上さんにとっての「小説を書く理由」でもあるのです。


 僕は阪神淡路大震災のニュースをちょうど病棟実習中に知りましたが、正直なところ自分の目の前の実習をこなすことで精一杯で、記憶にあるのは、関西出身の同級生が病院の食堂にあるテレビをみつめていた不安そうな表情と「医療チームとして○○先生が派遣されるらしい」というような噂話くらいです。
 「何かをしなくてはならないのではないか」と思ってはいたけれど、結局、何もできず、ただただ、ひとりの傍観者でいることしかできなかったのです。
 それは、まもなく3年が経とうとしている、東日本大震災のときも、同じでした。
 
 
 村上さんが、アメリカで自分の「源」が崩れていく姿を観て感じたことは、「悲しみ」や「喪失感」と同時に「自分がその場にいないことへの罪の意識」だったのかもしれません。それは「感傷」だと言う人もいるでしょうし、客観的にみれば「幸運」だったのですが、あの地震の光景に対して、そういう複雑な感情を抱いた人は、けっして少なくなかったと思います。あれは、「日本のどこで起こってもおかしくないこと」なのですから。


 僕は「傍観者としてしか体験していないこと」について、このようなネット上にでも書くということに、われながら、「そんな資格があるのだろうか?」と考えることがあるのです。震災で何も失っていない人間であるにもかかわらず、「ご冥福をお祈りします」なんて、軽々しく書くことは、偽善に過ぎないのではないか、と。


 でも、この村上さんの書かれたものを読んで、僕はなんとなく「こうやって書くこともまた、『少しでも共有すること』になるのではないかな」と思ったのです。
 もちろん、村上さんが書かれるような「物語という通路」にはなりえないとしても。

 
 まだまだ「個人的な余震」は続いているのだろうし、「源への信頼」は、完全には取り戻されていないのでしょう。
 それでも、こうやって残された人々が語り継いでいくことは、けっして、ムダではないのだと思います。


 オウム真理教の平田被告の裁判がいま行われているのですが、ニュース番組のなかで、「オウム事件のことを知らない若者たち」へのインタビューが紹介されていました。
「オウムって、何? えっ、そんなに大事件だったんですか?」
「山歩きサークル」を隠れ蓑にして、学生を勧誘しようとするオウムの後継団体。
 麻原が収監されている場所を「聖地」として、その周囲を「巡礼」している信者たち。
 その若者たちの姿をみて、僕はちょっと考え込んでしまったのです。
 あのセンセーショナルな「オウム真理教事件」は、リアルタイムでは、あれだけ大きく報道されたにもかかわらず、「子孫たちへの教訓」になっていないのではないか?と。
 当時、オウム事件のおかげで、報道番組の視聴率は大幅に上がったそうです。
 みんな、あの事件で「学んだ」はずだった。
 ところが、20年経ってみれば、また「オウム以前」と同じになってしまっているようにも見えるのです。
 もちろん、ネットなどによる「検証機能」は上がっていると思うのですが、ネットは、案外「見たいものだけを見る」ことが可能なツールでもあります。

 
 「忘れる」っていうのは、人間にとって自然なことなんだとは思うし、「忘れたいこと」も、たくさんあります。
 でも、「語らなかったら、なかったことになる」わけではない。
 リアルタイムで体験しなかった人たちにとって「実感がわかない」のはよくわかります。
 僕も全共闘とか、オイルショックとか、ベトナム戦争とか、よくわからないから。
 

 だからこそ、体験した人は、体験したことを語り継いでいくことって、けっこう大事なのではないか、とも思うんですよ。
 それが、どんな些細なものであっても。
 そこには、歴史年表からは伝わらない「何か」が含まれているのではないかと。
 ネットは、そういう「個人的な体験」を積み上げていくための、最良のツールだと思いませんか?


 関西出身の僕の同級生は、大学を卒業して地元に帰り、今では結婚して2児の父親になっています。
 

 「いまさら」だからこそ、そして、東日本大震災という「新しい大震災」が起こってしまったあとだからこそ、19年前の1月17日に起こった、あの震災のことを語ることに意味があるのではないか、そんな気がしています。

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