いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

金魚がこわい

我が家には、二匹の金魚がいる。
赤い小さな金魚と、黒い少し大きめの金魚が、やや手狭な金魚鉢で過ごしている。
去年の夏、息子が夏祭りの金魚すくいでもらってきたものなのだが(すくえなかったので)、幸いなことに、まだ元気に泳ぎ回っているのだ。
その後、姪っ子がすくってきた金魚たちは、一晩で死んで浮かんできてしまったのだけれども(暑かったせいか、途中でかなり弱っている様子でもあった)。


僕は家に帰ると、手を洗い、この金魚の様子を見にいく。
そして、「ああ、生きている、泳いでいる」と、安心する。
ただ、安心する。
息子と交替で餌をやり、ときどき水換えをする。


実はずっと、「もしかしたら、今度この金魚を見たときには、死んでいるんじゃないか?」と怖くてしかたがないのだ。


以前飼っていた金魚が、弱って、横向きになったり、ひっくり返ったりしながら、口をぱくぱくさせ、1週間くらい頑張っていたのを看取った記憶がある。
小さな金魚だった。
なんだかとても苦しそうだったけれど、だからといって、「安楽死」のような方法は人間のエゴのような気もしたし、後味も悪い。
さりとて、こんな小さな金魚を動物病院やペットショップでどうこうできる、という状態でもなさそうだ。
縁日ですくった、小さな金魚なのだから。
買えば、100円もしないだろうし、意思疎通ができるわけでもない。
お前は毎日、もっと大きな魚を食べているだろ?と自分に言い聞かせてはみるのだけれど、どうもおさまりが悪い日々だった。
いっそのこと、はやく決着がついてくれないか、などと、ちらっと思ったりもしたものだ。
金魚が死んでしまったあと、庭に埋めた。


幸いにも、今朝も金魚たちは元気なようだ。
とはいえ、家に帰ったら、やはりまた「生存確認」してしまうと思う。
「すごくかわいがっていて、一日中眺めている」というわけでもないのだが。


生きているというのは、怖いものだな。


ああ、こんなことを書いていたら、なんだか「死亡フラグ」を立ててしまっているのではないか、という気もしてくるなあ。

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