いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「舌打ちくらい、いいんじゃない?」

参考リンク(1):子供が車内で騒いでいたら 舌打ちぐらいはしてもいい? - Togetterまとめ


「歴史は繰り返すものだよなあ」などと思いながら、これを読んでいました。
1年ちょっと前には、こんな「炎上騒動」があったんですよね。
参考リンク(2):さかもと未明女史、飛行機中で赤ちゃんに泣かれて逮捕寸前のクレームを起こす(やまもといちろうBLOG)


ちなみに、そのさらに2年前には、こんな騒動もあって。
参考リンク(3):「子供がうるさいので電車降りてくれませんか」(琥珀色の戯言)


僕自身の現時点での考えは「一般化するのは困難かもしれないが、睡眠薬の使用もひとつの選択肢として、議論しても良いのではないか」というものです。
もちろん、リスクが無いわけではありませんが、それを言うなら、酔い止めの薬とかにだって、それなりのリスクはあるわけですし。
こんな世の中だと、もしかしたら、薬を使うことを避けて、周囲の人とトラブルになるほうが、よっぽど子どもにとっての「身の危険」につながるんじゃないか?とも思うしね。




個人的には、この堀江さんのツイートを読んでいていちばん気になったのは、「舌打ちくらい」というところでした。


僕の知人にも、「舌打ちで不快感を表明する人」っていうのがいるのですが、僕はそれを耳にするたびに、なんだかとてもイヤな感じになってしまうのです。
子どもの泣き声で「不快になる」のはわかります。
自分が眠りたいときとか、何か他のことをしているときに、泣き声が聞こえてきて嬉しい、という人はいないはず。
やっぱり、泣き声って、神経をささくれ立たせるものではありますから。
(その子どもだって、なんらかのトラブルを感じているからこそ「泣いている」のでしょうし)


ただ、そういう状況に対して「舌打ち」という方法で「不快感を表明する」というのが、僕にとっては「よくわからない」のですよ。


このツイートの状況の「隣の席の女性」って、誰の隣なのでしょうか?
ツイートしている人の隣なのか、それとも、泣いている後方の席の子どもの隣の女性なのか?
それによっても、ちょっと違ってくるような気がします。
もし、この子どもの隣の席の女性であれば、明らかに「相手に不快感を表明している、抗議している」ということになるでしょう。
その方法として「舌打ち」は適切なのかどうか?
(もちろん、いきなり怒り狂って相手に殴りかかる、なんていうのは「論外」とします)


ツイートしている人の隣の席で、相手からは見えない場所で「舌打ち」をしているのであれば、直接的な「抗議」にはならないでしょう。
本人には「ストレス解消」になるかもしれませんが、それを隣で聞かされる関係のない人間はたまりません。


goo辞書では、「舌打ち」に、こういう語釈がつけられています。

した‐うち【舌打ち】
[名](スル)

1 舌を上あごに当てて、ちっと鳴らすこと。いまいましさや、いらだちを表すしぐさ。「いかにも残念そうに―する」


2 したつづみ。
「一膳めしに―鳴らすか」〈独歩・非凡なる凡人〉

いくつかの辞書で確認してみたのですが、調べた範囲では、みんなこの「1」「2」の語釈を採用していました。
現在「2」として使われることはほとんど無いと思われます。
「1」については、少なくとも言葉そのものには「侮蔑(ばかにする、軽んじる)ニュアンスはない」ということなのでしょう。
とはいえ、いまの世の中での一般常識としては、相手への好意を示す行動ではないのはもちろん、敬意を持っている人の前では、やるべきではないと思われます。
いくら不満があっても、天皇陛下の前で舌打ちをやる勇気がある人はいないでしょうし、学校の先生や親の前で舌打ちをすれば「挑戦状を叩き付けた」ということになります。


「舌打ち」って、癖になっている人にとっては、「ちょっとした不快の表明」なのかもしれませんが、そうでない人にとっては、なんだか「他人を見下しているような感じがする行為」なのですよね。
 少なくとも、行っている側の「たかが舌打ちくらい」という感情を、された側や周囲の人が共有しているとは限らない。
 そんなことは、本当は大部分の人はわかっているはずです。
 先ほどの「天皇陛下相手に」というのはさすがに極論ですけど、ヤクザに絡まれているときに、不快だからといって「舌打ち」する人は、まずいないはず。
 どんなにそれが「癖」なのだとしても。
 にもかかわらず、相手が子どもとか友達とか見知らぬ人だと、こういう形で、不快感を表明してしまう。
 この場合、子どもは「舌打ち」の意味なんてわかりませんから、親に対するあてこすり、ということになります。
 「泣いている子どもが周囲に迷惑をかけていることに動揺している親」、つまり「反撃しようもない、弱い立場の人」に対して、「舌打ちくらい」ということで加えられる、(やる側にとっては)カジュアルな攻撃。
 でも、舌打ちされたからって、子どもは泣き止みません。
 むしろ、相手の親も追い詰められて思いつめたり、「逆ギレ」してくる可能性があります。
 

 僕は、そういうふうにして、他者を傷つけてしまい、反感を買うのが怖い。
 言い換えると、「舌打ちなんかしたって状況は何一つ良くなりはしないのに、ちょっとした自分の不快感と優越感の表明のために、他人に嫌われたり恨まれたりするリスクを取るなんて、割に合わない」ということです。


 もし相手の親がすまなそうにしていれば、そんなふうに追い詰めるのはかわいそうなだけだし、騒いでいる子どもを放っておくような、いわゆるDQNであれば、そういう人に「舌打ち」をすることによって、トラブルを誘発するかもしれません。
 どっちにしても、「いいことない」のです。
 周囲からは「舌打ちをするような人」として軽蔑される。
 そして、「舌打ち」というのは「不快感の表明」ではあるけれど、「正式な抗議」ではないから、相手も「問題解決を求めている」というより「単なるイヤミ」だとしか受けとらないことが多い。


 こういう場合、状況が変わらないのであれば、「黙って我慢する」か、「『静かにしていただけませんか?』と、穏やかに抗議する」のいずれかが賢明な身の処し方だと、僕は思うのです。
 前者なら、静かにはならないかもしれないけれど、少なくとも「よけいな恨みを買う」のは避けられる。
 後者なら、恨まれるリスクはあるけれど、状況が改善される可能性はあります。いや、状況は改善されないとしても、「すみません、どうしても泣き止んでくれなくて……」と、ひとこと、言葉を交わすだけで、「ああ、親も困っているんだな」ということが伝わってきて、意外と許せちゃったりするものです。


 「舌打ち」っていうのは、「自分からは一方的に不快感を表明したいけれど、深いコミュニケーションは拒否する」というアピールです。
 「舌打ちくらい」って考えている人もいるみたいだけれども、「舌打ち」って、やっても、何のメリットもない行為ですよ。
 「相手を不快にしたくてしかたがない」のなら別だけど、そうであるなら、「舌打ちくらいで気を悪くするな」というのは、筋違いになるでしょう。


 僕自身としては、「誰も見ていない、聞いていないところで、一人きりで舌打ちする分には、どうぞご勝手に」と思っています。
 そこまで規制する必要も権利もないしね。


 「誰かに聞こえるように舌打ちする」っていうのは、相手が抗議したい当事者、あるいは第三者であっても、「舌打ちぐらい、してもいいじゃないか」って言えるほど軽い行為じゃない。
 「舌打ち」って、「百害あって、一利なし」の典型例だと思います。
 

「舌打ちくらい、いいんじゃない?」
 いいえ、「舌打ちだから、よくない」のです。

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