いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ある中年男の「自分があげてきたプレゼントの歴史」

参考リンク:5回目のクリスマス。(はてな匿名ダイアリー)


これを読みながら、僕は「自分があげてきたプレゼントの歴史」みたいなものを、思いだしていたのです。
40年以上生きていれば、いろんなものを、もらったりあげたりしてきたわけで。


子どもの頃から、プレゼントには「ずっと形として残るもの」をあげたい、と考えてきました。
小学校の頃の家族旅行での友達へのお土産とかも、お菓子よりキーホルダーとかペナント(ってわかりますか?三角の小さな旗みたいなやつです)を選んでいました。
学生時代のホワイトデーの「お返し」も、食べものじゃなくて、ハンカチとか小物とかを選んでいたんですよね。
明らかに「本命」ではなさそうなチョコレートに対しても。
(というか「本命」って、ほとんどもらったことないや)


なんというか、自分の「好意」を、ずっと残しておきたかったのでしょうね。
今から考えると、なんて自意識過剰で、迷惑だったんだろう、と赤面してしまいます。


恋人から妻へとクラスチェンジした女性に対しても、毎年プレゼントをあげていました。
結婚前もかなり長い間のつきあいだったのですが、最初はぬいぐるみからはじまって、アクセサリー一般、服など。
食事とか旅行とか「形として残らないもの」は、あまり選ばなかった記憶があります。
現在は、年齢とともに「欲しいものが無いことはないけれど、最終的には財布を共有しているようなものだから、あまり高いもの買ってもねえ」という感じで、ケーキを買ってきて、3人で蠟燭に火をつけて、ハッピーバースデーを歌っておしまい。
ただし、息子の誕生日には、欲しいものをひとつ買ってあげています。
これがまた、聞くたびに欲しいものが違うので、リサーチするほうも困るんですよ。
「トミカ!」って言うので買ったら、レジでお金を払って家路に着く頃には、また他のものを欲しがっている。
もっとも、最近あまり物欲がなくなってしまった僕としては、子どものそういう「遠慮のない物欲」が、ちょっと羨ましかったりもするのです(で、調子に乗ってときどきミニカーとかを買ってあげてしまい、家に帰って妻に怒られる、と)。


いまでは、他人へのプレゼントは、食べものを中心とする「消えもの」(すぐに無くなってしまうもの)を選ぶようになりました。
妻や家族に対しても、本人の希望がなければ、「あまり普段は食べられないようなおいしい食事」とか「旅行」を選ぶようにしています。


他人には、相手の負担にならないように。
家族には、最後に残って自分の側にあるのは「記憶」だと思うから。
いや、最近はもう、「その瞬間、美味しかったり、楽しかったりすれば、すぐに忘れちゃってもいいかな」なんて。
どんな素晴らしい記憶でも、墓場まで持っていくことはできないのだし。


僕の大好きな中島らもさんは、リリパット・アーミーという劇団で芝居をやりはじめたとき、こう言っていたそうです。

「観ている間は、ずっとゲラゲラ笑ってイヤなことを忘れて、観終わった瞬間に、いままで観ていたものを忘れてしまう、そんな舞台をつくりたい」


この言葉を最初に聞いたときには「カッコいいな」とは思ったけれど、実感はわかなかった。
でも今は、少しずつ、この言葉の意味がわかってきたような気がするのです。

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