いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

僕は街頭募金が苦手だ。

僕は街頭募金が苦手だ。


先日、息子の七五三で太宰府天満宮にお参りに行ったら、太宰府の駅前で、高校生らしき若者たちが、大きな声をあげていた。
交通遺児が学校に行くための募金に、ご協力をお願いします!」


日曜日の、昼下がり。
参道を行き来する人は多いのだけれども、彼らのかすれかけた声に、立ち止まる人はほとんどいなくて。


いや、僕自身も、息子の手を引いて、少し目をそむけて、その場を立ち去ってしまったのだけれども。


「うちだってお金が有り余っているわけではない」とか「どうせすべての困っている人を救えるわけでもないのだし」とか、いろんな言い訳めいたものを考えてしまうのだけれども、100円くらい、いや、1000円くらいその場で募金をしても、すぐ生活に困ったりするようなものじゃない。
いま、手を繋いでいる息子だって、両親にもしものことがあれば、誰かの援助を受けなければならないし、こういう場所で、息子に「善人である父親」を見せてやるのも悪くない。


……でも、やっぱり僕は、募金することができなかったのだ。


彼らが「聖人」だなんて、期待してもいない。
きっと彼らだって、寒いなか声を枯らしつつも、内心「せっかくの日曜日なのにな〜」と考えてもいるだろうし、「なんでみんな協力してくれないんだ」と憤ってもいるだろう。
バックヤードに戻れば、仲間内で、「あのオッサン、10円しか入れてくれなかった、ケチだよねえ」とか「なんか、こういうのって、割にあわないよね……」とか言い合っているのだろうと思う。
むしろ、そうであるのが自然なことだ。


考えてみれば、不思議なことだ。
この参道を太宰府天満宮に向かっている人の大部分は、この後、いくらかの「お賽銭」を神様におさめて帰るはずだ。
壇上にあがっての「七五三祈願」は、ひとり5000円もかかる。


「交通安全祈願」というのもあって、「○○が新しく車を買ったので、事故に遭いませんように」と神主さんがお願いしていたりもする。
菅原道真公は『自動車』なんて知らないのでは……」とか考えてしまって、ニヤニヤしそうになるのを抑えるのが大変だった。


「お賽銭」が、本当に「神様に捧げられる」と考えている人は、あまりいないはずだ。
あのお金の大部分は、スタッフ(と言うのが適切かどうかはわからないが)や施設の維持費として使用されている。
まあ、それは「神様の居場所を過ごしやすいものにする」ことに使われてはいるのだろうけれど、「経費として、間にいる人間が受けとる割合」は、ユニセフの募金よりも高いのではないかと思う。
そもそも、本質的に、神様がお金を必要としているのかどうかもわからない。


「現世利益」ということで考えても、同じ金額なら、お賽銭にするよりも、駅前で募金したほうが、巡り巡って、いつか息子の役に立つ可能性は高いはずだ。
なのに、僕の心と足は、あの高校生たちのほうには向かない。


正直、お金がもったいない、というより、「良い事」をこれみよがしにするのは、なんだか恥ずかしい、という気持ちもあるのだ。
バカバカしい、と思われるのかもしれないが、大勢の人の前で、自分が「募金するような人」にみられたり、募金額で値踏みされるのではないか、と想像するのは、けっこう僕にはつらい。
極端な話、あの高校生たちの募金箱に、僕の財布からお金を見えないようにワープさせられるのなら、いくぶんかの募金をするのは、やぶさかでもないのだが。
と言いつつも、ネットで簡単にできる募金に対しては「相手の顔が見えない」ような気がして、なかなかお金を出そうという気分にはなれないのだ。


……単に、ケチなだけなのかもしれないな。


東日本大震災のあと、しばらく、コンビニでもらった小銭のお釣りは、全部募金箱に入れていた。
でも、店員さんに「ありがとうございます」と言われるのが、なんだかちょっとめんどくさくもあった。
向こうもめんどくさいんだろうな、なんて、勝手に想像したりもしていた。
ただ、あの大震災には、そういう「気恥ずかしさ」を乗り越えざるをえない、切実さがあった。


子どもにも、少額のお釣りは「募金箱に入れていいよ」と言っている。
不思議なもので、子どもと一緒だと「いいこと」をするのは、そんなに気恥ずかしくない。


「良い事」をするのに、勇気がいるというのは、なんだか変な話だ。
募金を受けとる子どもたちだけでなく、寒空のなか、立ち止まる人もほとんどいないのに、大声を張り上げている若者たちが、少しでも「世界の温かさ」を知ってくれればいいな、とも思う。
海の向こうでは、白血病の子どもの夢をかなえるために、オバマ大統領まで協力して、壮大な「バットマンごっこ」が行われたそうだ。
あの「ごっこ遊び」の目的の半分は「病で苦しんでいる子どもに何もできないことにもどかしさを感じている大人たちが、少しでも心の安らぎをえること」だと思う。
それは、それで良いのだ。


人間には、世界には、まちがいなく「善意」は存在している。
でもそれを現実の行動とうまく噛み合わせるのは、案外難しい。
多くの人が小さな行動集めれば、サンフランシスコを、ゴッサム・シティにすることさえできるのに。


ネットでアグネス・チャンさんやひろゆきさんやユニセフや虚構新聞を批判するよりも、あの場で息子の手を引いて、募金箱に100円玉を入れるほうが、たぶん、より良く生きること、なのだろうと思う。

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