いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

ネットには、人間の「ホンネ」なんて書かれていない。

参考リンク:批判コメントが私にもたらしたもの - せんえつながら


このエントリを読んで、僕はずっと前の、個人サイトをはじめた頃の自分のことを思いだしていました。
そうそう、あの頃は、「ネットでは、みんなホンネで真っ向から批判してくれるのだな」と驚いていたなあ、って。


2013年6月26日の『怒り新党』で、マツコ・デラックスさんが、こんな話をしていました。

「だから私がネットは嫌いだ、って言っているのはそこよ。
目の前に人がいないから、相当なことを書いてるじゃない。
「それお前の本当に真意なのか?」っていうさ。
自分の思ったことを、さらに悪くして書いたり、とか。
怖いのよやっぱり、あれ。


私ね、ネットで何を書いてもいいと思うのよ。
それを、参考にしてしまうほうがいけないと思う。
要は今、たとえばテレビ番組ひとつ作るとしても、ネットでどんな評判だったとか、Twitterでどんな書き込みがあったとか、すごいみんな気にしてるでしょ?
でも、制作している側が、ネットでの反応をみて、「じゃあ今度はこっちでやりましょう」っていうふうにしたらダメなの。
それはもう、ネットとか、世の中の「総意」みたいなものは抜きにして、クリエイターがつくりたいものをつくればいいと思う。
それを、あまりにもみんな人の意見を気にしすぎているから、金太郎飴のような、映画みたってテレビみたって、同じようになってしまうから、よりいっそうネットのほうが面白い、みたいになっているのがムカつくの。


「ネットにはみんなのホンネが書かれるから怖い」って、僕はずっと考えていました。
でも、それは「現実ではみんながホンネを隠し、ウソばかりついて暮らしている」というのと同じくらいの「思い込み」ではないかと最近は思うようになっています。


このマツコさんの話を聞いて、ちょっと考えてみてください。
ネットで炎上している人を叩くときに使われる「死ね」とか「消えろ」みたいな言葉って、本当に「ホンネ」なのだろうか?って。
僕自身、ネット上で、あるいは私生活での苛立ちをネットでぶつけたようなこともあって、そうするとやっぱり言葉がキツく、あるいは残酷になってしまったのを経験しています。


あとで読み直してみると、あれは「ホンネ」だったというよりは、その場の熱で暴走して、普段の自分が思っていることよりもはるかに「強い言葉」を使ってしまったのではないか、と感じるのです。


でもね、やられる側にとっては、相手の事情なんて、全然見えないわけですよ。
家庭がうまくいっていないとか、リストラされたとかいう知りあいがイライラして八つ当たりしてきたら、やっぱり腹は立つけれど、「しょうがねーなー」とか言いつつ距離をおいて、しばらく様子をみたりしますよね。

そもそも、ネット上では、バランスをとるような発言や、穏健な「まあいいじゃないですか」みたいな言葉は、あまり目立ちません。
そういうスルーされるに決まっていることは、わざわざネットに書く必要もないだろう、とも考えてしまいます。


最近の例でいえば、矢口真里さんの騒動なんて、僕の周りには、怒っている人はひとりもいません。
「出張中に配偶者が何かやっているかもしれないと思うと怖いよなあ」とか「男だったら、ここまでバッシングされないでしょうけどね……」みたいな反応はありますけど。
あの夫婦のどちらかの知りあいかファンでなければ、「赤の他人の夫婦関係など、どうなろうが興味がない」人が大半のはず。
にもかかわらず、彼女のブログは炎上しまくっているわけです。
「そんなのどうでもいい」という、本当の多数派の「ホンネ」は、表に出てこない。
そんなの、わざわざコメント欄に書いても、面白くないから。


ブログにコメントをする人のなかに「本当に、ブログ主のためを思っている人」って、ほとんどいないはずです。
(芸能人ブログのなかの、一部の熱狂的なファンは除く)
書き込む人は、少しでも「目立つ」あるいは「自分の主張を届かせる」ために「より過激な言葉」を使ってしまいがち。
 もともと、激しい言葉が使われがちなところで、さらに「過激さ比べ」が行われ、言葉はエスカレートしていく一方です。
 周りがみんな「死ね!」「消えろ!」って言っている場なら、自分が「死ね」って言うハードルも下がってしまいます。


 世の中って、「より酷い言葉、過激な思考ほど『ホンネ』だ」と思われがちじゃないですか。
 でも、僕は違う気がする。
 どんなにイヤなやつ、嫌いなやつでも(程度問題ですが)、自分が「死ね」って言った直後に死なれると夢見が悪い。
 視界に入ってほしくはないが、世界から消え去れ、というほど憎むエネルギーもない。
 負のパワーを放射しつづけるのって、けっこう大変なんですよ、実際は。
 直接何かをされたわけでもない、赤の他人に対してなら、なおさらのことです。
「あーイライラするから、ちょっとあいつの悪口でも書いてやるか、みんな書いてるし」というような人の言葉を真に受けていては、疲弊するばかりです。
 矢口さんのような「芸能人」であれば、やっぱり「評判を売っている」面もあるのでしょうが、無名の個人ブロガーならば、なおさら。


 そもそも、「他人に面と向かって言えないこと」=「ホンネ」っていうのも、おかしな話です。
 そういうのは「いろんな考えが頭に浮かんでくるなかで、自分でも好ましくない、外に出すべきではないと感じるような極端なアイディアのひとつ」でしかない。
 頭の中で何を考えていようが、外へ出てこなければ、それはもう「思想の自由」なわけです。
 ただし、口に出してしまったり、書いてしまったりすれば、それなりの「反応」はあるだろうし、それをせき止めることは難しい。


 「ネットイナゴ」と呼ばれる、叩かれている人を匿名で口汚く罵る人々は、「ホンネ」を書いているわけじゃないと思うんですよ。
 過激な言葉が並んでいるなかで、自分の日頃の鬱憤をぶつけたり、言葉遊びをしたりしているだけ、なのです。
 ところが、そういう「軽い気持ち」でも、たくさん集まれば、凶器になる場合もある。
 「死ね」って書いている側にとっては「遊び」だし、「なんでこのくらいで死ぬのか、よくわからない」「相手の心が弱いから、こんな結果になった」って。
 あるいは「俺のせいじゃない。マスコミが話を大きくしなければ、こんなことにはならなかったんだ」と。
 それはたしかに、そうかもしれない。
 ただし、マスコミの側にしても「マスコミは延焼のスピードを早めたかもしれないが、それはあくまでも『早めただけ』じゃないの?」という主張はできるはずです。
 そもそも、「最初に火をつけたのは、自分たちじゃないし」。


 ネット時代以前の「ホンネ」は、心の中にずっとしまっておかれるか、何かの拍子に誰かに語られるか、何かに書かれるか、というものでした。
 しかしながら、語られたり、書かれたりする際には、「相手」を意識してしまうので、やはり、それなりの「自主規制」が加わることがほとんどです。
 そして、「心の中にずっとしまわれていた、本当のホンネ」は、本人以外の誰にも、永久にわからない。
 もしかしたら、本人にもわからないかもしれない。

 
 ネットの場合には「具体的に、それをぶつける相手」をイメージしにくい。
「炎上」だって、本人に直接メールしたり、本人に突撃したりする人はごくわずかで、だいたい、本人のブログや巨大掲示板に罵詈雑言が並ぶことになります。
 やっぱり、面と向かって「死ね」とは言いにくい。
 そして、「言いにくい」と思うようなことは、たぶん「ホンネ」とイコールではない。
 ところが、書かれる側は、その「中庸の部分がスッポリと抜けた、極端な批判」ばかり、目にすることになる。


 強い言葉、過激な言葉が「ホンネ」だというのは、少なくともネット上に関しては、あてはまらないのではないかと思います。
 大部分の人の「ホンネ」は、「淋しい」「退屈」「めんどくさい」「なんか楽しいことないかな」そんなものでしかないし、それが「普通」のはず。
 そして、何かに対して、激しい怒りを感じるのも、長くて1日程度。
 それも、日常生活をおくっていれば、憎悪の感情ばかり一日中燃やしているわけにもいかない。
 ほんの5分の「一時的かつ熱狂的な怒り」も、ネット上で文字になれば、ずっと残り続けます。
 これって、炎上させている側にとっても、不幸なことなんじゃないかと思う。
 

 ネットには、人間の「ホンネ」なんて書かれていない。
 ほんとうの「ホンネ」なんて、面白くもなんともないから。
 それを、言葉を投げつけるほうも、受けとるほうも、知っておいたほうがいい。

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