いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「優しくって、少しばか」だった物書きの話

参考リンク:作家の原田宗典容疑者を覚せい剤所持逮捕(日刊スポーツ)


「優しくって、少しばか」
これは、原田宗典さんの初期の小説のタイトルなのですが、僕は直接の面識はない原田さんの人柄を想像するとき、いつもこの言葉が頭に浮かんできます。
もっともこれは、僕がいまから20年前くらい、鬱屈した大学生活を送っていたときに、原田さんの面白エッセイで何度も癒されていたときのイメージ、でもあるのですけど。
父親がかなり変わった人で、引越しを繰り返した少年時代の話や、岡山での生活、とにかくものを書く仕事がしたくて、有名コピーライターのところに「弟子入り」して、気がきくので「史上最高の使いっ走り」と呼ばれていたこと。
そして、面白エッセイで人気になりながらも、小説を書きたい、と、ずっと思っていて、学生時代から習作を続けていたこと。

以前、原田さんが「はじめて未来の妻になる女性と会ったとき、ぼくは無精ひげを生やしていて、髪はボサボサで、しかもジャージ姿だった」と書かれていたのを読んだことがあるのですが、なんだか、その話、すごく印象に残っているのですよね。
僕も「運命の出会いなんて、そんなドラマチックなものじゃないよなあ」と、のちに実感することになったので。

そんな原田さんも、いつの間にかあまり名前を耳にしなくなりました。
ときどき、エッセイの文庫が書店に並んだりはしていたのですが、旧作の焼き直しだったり、昔のネタの使い回しだったりで、内心「なんか最近、ヘンじゃないか?」と思っていたのです。
そんなときに、うつ病を患っている、という内容の本が出て。

僕が本で読んできた原田さんって、本当に明るい人で、最近映画にもなった『横道世之介』が、僕にとっての原田宗典さんのイメージなんですよ。
勢いで劇団に参加しちゃったり、子供に絵本をつくってあげたりする一方で、「小説を書けないこと」に悩んでいる、というのも聞いてはいたのですが……


覚せい剤、か……


覚せい剤所持、そのものは全くもって弁護の余地はありません。
正直、原田さんに抱いていた僕のイメージとはあまりにも遠くて、「自殺することはあっても、覚せい剤なんて……」と愕然としたのも事実です。
躁状態、あるいは鬱状態がもたらしたものなのかもしれませんが、だからといって、無罪になるものではないし、これまで原田さんの明るい面を愛してきた人たち(僕も含む)にとっては、やっぱり、なんともいえない寂しさがあります。
あの、幸せそうだった原田さんだって、こういうこともあるのだから、僕の人生だって、どうなるのかわかんないよな……というような、漠然とした不安もあります。
いや、40代とかになってみたらさ、たしかに、「なんだか適当に受け流して生きてこられたもの」が、そうできなくなったり、逆に、気になってしょうがなかったものが、どうでもよくなったりするものだな、とよく思うのだけれども……


原田さんは、躁鬱病のこともあるのだけれど、自分のイメージや目標に自分で囚われてしまって、「あまりにも真面目にバカなことをやろうとしすぎた」ような気もするんですよ。
本質的には、そんなにバカなことが好きでも、得意でもなかったのに。


そして、すごい小説を書こうとすればするほど、空回りしてしまった。


『リトル・バイ・リトル』(島本理生著・講談社文庫)の巻末の原田宗典さんの「解説」より。

「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」
 と若き日の林芙美子は、”小説の鬼”と呼ばれた作家、宇野浩二に尋ねたという。林芙美子というのは、後に『放浪記』を書いて、広く愛される作家になった人である。宇野浩二と初めて会った時は、まだ女学生だったという。
「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」
 この素朴すぎて感動的ですらある質問を、よくぞ口にした。さすが林芙美子、と私は思うのである。
 対する宇野浩二の答えも、質問と同じくらい素朴なものだ。曰く、
「話すように書けばよろしい。これは武者小路実篤氏が祖です」
 簡明にして的確に、浩二は核心を述べている。いや、大袈裟に言うのではない。話すように書く――そういう文章が書ければ、それは小説になる、と言っているのだ。
 宇野浩二という人は、先年亡くなられた水上勉さんが師と仰いだ作家で、文字通り生涯を文学に捧げた人である。たとえ無名の女学生からの質問だからといって、こと文学に関しての問いかけに、その場しのぎの適当な答えを返すとは思えない。
「話すように書けばよろしい」
 これは、魔道とも呼べる文学の道を血を流しながら歩んできた宇野浩二が、素手で掴んだ一つの真実であったに違いない。本当のところであるからこそ、咄嗟に答えたのだと私は思う。ちなみに「話すように書けばよろしい」小説の祖と呼ばれている武者小路実篤という作家は、世間ではかぼちゃの絵とか好々爺然とした肖像写真などで知られるばかりだが、この人こそ口語体の元祖であると言っていい。若き日の実篤が、普段話しているようにして書いた小説は、芥川龍之介をして、
「文学の天窓を開け放ったような」
 と言わしめたほど斬新なものであった。実篤のすごいところは、生涯を通じて、小説も詩も戯曲も論文も、すべてを「話すようにして書」き抜いた、という点である。現在、私たちがこんなふうに口語体で書けるようになる上で、実篤が果たした功績は、実は大きいのではないか、と私は考えている。
 さて林芙美子が「小説の書き方」を宇野浩二に尋ねてから、百年近い月日が流れて、二十一世紀。これだけ時間が経っているのだから、「小説の書き方」だって相当進歩し、変化しているはずだろう――と思いきや、答えは今日でも変わらない。
「話すように書けばよろしい」のである。
 しかし実際に書いてみれば分かると思うのだが、人間というのは日頃自分がどんなふうに話しているか、なんてことは意識しないで生きているものなので、いきなり「話すように書け」と言われても、どう書けばよいのか分からないのが普通である。大抵の人がここで挫折し、自分には書けない、と諦めてしまうか、「話すように書く」ことを無視して、「書くように書いて」しまう――しかし「書くように書いた」文章は滅多なことでは情緒を生まない。それは単に情報を伝えるだけのもので、目には触れても、心に触れることはない。
 その昔チェホフが口にしたという「雨が降ったら”雨が降った”とお書きなさい」という言葉――なあんだ、そんなこと、当たり前で簡単すぎることじゃないか、と軽んじられがちだが、書いてみると、これが非常に難しいことであると段々分かってくる。書き言葉、特に日本語は装いたがる性質を有しているために、つい余計な形容詞をくっつけたりしてしまう。”雨が降った”だけでは何だか物足りないような気がして、”銀色の雨がしとしと降った”などと書いてしまうのだ――これは、前述の「書くように書いた」文章の一例でもある。「話すように書く」ことができれば、ここは当然”雨が降った”だけでよいのである。


ああ、でも、頭ではわかっていても「雨が降った」って、書けなかったんだろうなあ、原田さんは。
いや、みんな書けないから、苦労するんだけど。
あまりにも小説が好きすぎて、憧れ過ぎて、考えすぎて。


その一方で、妹の原田マハさんは「人気小説家」になっていったのです。


原田さんの『吾輩ハ作者デアル (集英社文庫)』のなかの「紐育素描集」より。

 人生よ、おまえはまるで私の妹のよう―。

 そう詩ったのは、パステルナークだったろうか。初めて読んだ時は、どうして人生が妹のようであるのか、さっぱり分からなかった。が、今は、40年以上生きてみた今は、この詩の意味がほんの少し分かるようになった気がする。

 人生よ、お前はまるで私の妹のように可愛い。初めの頃はあどけない顔をして私の後についてきただけだったのに、人生よ、おまえはいつの間に私にはどうしてやりようもないところへ行ってしまったのだ。まるで私の妹のように。


 手の届かないところに行ってしまったとしても、妹は妹だし、人生は人生。そんなことはわかっているのだけれども、やっぱりせつないなあ。
 ……と思っていたら、その妹が、自分のホームグラウンドのはずの「小説」に乗り込んできて、高い評価を受けるようになったのです。
 妹思いの原田さんは、嬉しかったはず。
 でも、キュレーターになったはずの妹が、いつのまにか売れっ子小説家になり、自分が「原田マハの兄」になってしまったことに、戸惑いもあったはず。


 僕は原田宗典さんの作品が好きですし、人生のある時期、原田さんのエッセイに救われていたのです。
 まだ54歳だし、やりなおしもききますよ!なんて書きたいのだけれど、病気のこともあるし、そんなに簡単じゃないよな、とも思う。
 ただ、これまでの原田さんの作品が「ああ、覚せい剤で捕まった人の……」って言われてしまうのが、とても悲しい。

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