いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

バラエティ番組の「いじり」と学校の「いじめ」のあいだ

それって悪い事だったのか? - ketudanの日記


本当に難しいよなあ、と思う。
たとえば、ひとりに対して、大勢がバカにしていたり、罵声をあびせてからかっていたりしている光景があるとする。
もしそれが学校で行われていれば、「いじめ」であり、許されないだろう。
しかし、それがテレビのバラエティ番組で行われていれば、大部分の人は、「まあ、演出だから」と笑って済ませるはずだ。
そういう約束になっていないと、出川哲朗さんとかは「商売あがったり」になってしまうしね。


しかし、ネットの場合はどうか?
ネットというのは、あまりにも範囲が広すぎて、いろんなスタンスで書いている人がいるので、一概には言えないのだ。
今回の一件についても、イケダハヤトさんや青二才さんは「炎上上等の人」だし、炎上でアクセスを稼げればいいのだから、罵倒でも言及されるのはしょうがないだろう、という人もいる。
でもさ、ネットの向こうの人が、本当はどう考えているかなんて、わかんないよね。
今回の件も、店長がそこまであの増田の人を気にしているとは、僕には思えなかったのだ。
「移転宣言」が出るまで、気づかなかった。
よくいる粘着、アンチだから、いらつくだろうけど、そこまで深刻にとらえてはいないだろう、と。
ネットって、書いている内容だけからしかその人のことをうかがうことができないから、直接対面で表情や声から推測するのに比べると、やっぱり、「相手の本当の感情」を想像するのは難しい。
いや、身近な、目の前の人であっても、「本当の感情」なんて、よくわからないし、自分自身の感情だって、わかんないなあ、と思うことも少なくないのだとしても。


そもそも、どこからが「正当な批判」で、どこからが「誹謗中傷」なのかというのは、なかなか難しいところではある。
受け手の感覚だけを基準してもいいのか?
それとも、なんらかの客観的な指標が存在しうるものなのか?
テレビバラエティであれば、「そういう番組で放送されている」ということそのものが、ひとつの「サイン」になっている。
学校の場合は、「誤解されるような行為も、やってはいけない場所」だと認識されているはずだ。


ネットの場合、炎上というか、あれこれ異論が出るような意見のほうが、みんなに観てもらいやすい、という傾向は確かにあって、そのためには「釣り」を行う人もいる。
その一方で、表出しようもない自分の内心を吐露してしまう人もいる。
「ネットはみんなに見られる場所だから、ある程度いろんな意見をぶつけられるのはしょうがない」
確かにそうなんだよね。
なかには「なんじゃこりゃ!」というのもあるけれど、眞鍋かをりさんが言っていたように、基本的には「見たら負け」でもある。
それでも、書いている側には、いろんなスタンスの人がいるわけで、そんなに「ネット慣れ」していない人にとっては、批判コメントひとつでもかなりのダメージになりうるのです。

書いている側からすれば、「こっちもお金もらっているわけじゃない同じ素人」なのに、見ている側からすれば、「大手」は権力のように見えることもある。


最近よく考えているのは、「批判する人」や「褒めてくれる人」ではなくて、「とくにリアクションをすることもなく、淡々と読んでくれている人」のために書ければいいな、ということです。
40年くらい生きていると、「盲信してくれる人」とか「ファン」っていうのは、ちょっとその人の気分が変われば「徹底的なアンチ」になってしまう怖さがあるのがわかってきます。
そういう意味では、店長は「ファンも怖かった」のかもしれません。
自分を絶賛している人が、同じ口から、他の誰かを徹底的に貶める。
「自分は優れているから大丈夫」と信じられるか、「あの矛先が、次に向くのは自分ではないか」と不安になるか。


結局さ、「信じる」しかないんだよね、ブログ書きなんていう、ある意味不毛な行為を続けていくためには。
誰かがどこかで読んでくれて、喜んでくれて、あるいは時間潰しに役立ててくれていること、ここに僕がいるということを、一瞬だけでも認知してくれること。

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