いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「ちゃんと挨拶をしろ」を、それ以外の言葉で伝えるのは難しい。

参考リンク(1):たかが挨拶ぐらい、できなくてもいいんじゃない? - ihayato.書店


最初に読んだときは「何言ってやがんだ!」って感じだったのですが、少し時間を置いて読み直してみると、「挨拶なんていらねーよ」って話じゃなくて、「(俺に)ちゃんと挨拶しろ!って人が鬱陶しい」という内容なのだと気づきました。
まあ、それはそれでわからなくはないというか、中学生のとき、部活の先輩にそう思ってたなあ、なんて懐かしく感じました。


なるべくフラットな気持ちで読んでみると、

「ちゃんと挨拶をしろ」という説教は、ようするに「礼儀を忘れるな」と伝えたいわけですね。これは同意しますし、正論です。


しかし、この言葉の何が嫌かって、「(オレに対して)礼儀を忘れるな」という意識が透けて見えているのです。

などというくだりには、なるほどねえ、と思うところもあります。
これはネットでよく言われる「太宰メソッド」ってやつです。


太宰治人間失格』より。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
 世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
 という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬るのは、あなたでしょう?)

 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
 と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。


「世間」を振りかざして、「自分」を正当化しようとする人は、太宰の時代も今も少なくありません。
 実際、イケダさんが「挨拶をしなかった」ことを批判された場面というのは、やまもといちろうさんとの公開対談で、かなりアウェーの雰囲気の会場ではあったようです(この徳力さんのエントリを参考にしてください)。
 こういう状況でも、「お客様」に対して、「今日はありがとうございました」と軽く頭を下げておいたほうが「大人の処世術としては正解」だと思いますが、愛想良くしにくい雰囲気であったことは確かでしょう。


 個人的には「プロブロガーに挨拶とか礼儀正しさまで要求するのはちょっと買いかぶり過ぎだとは思うけれど(というか「どうしても挨拶ができない人が生き延びるための職業として「プロブロガー」が選択肢になるような世の中は、ある意味健全だと思う)、こうやって参加料を取って人を集めるイベントをやるのなら、それなりのふるまいを要求されるのは致し方ない」とは感じるんですけどね。
 ああ、でも「挨拶をしない」というのが「ロックな振る舞い」だということなのかな。
 デーモン小暮閣下が「お客様は神様です」とかやったら、世界観が壊れるとか、そういう感じ?
(余談ですが、デーモン閣下なら、けっこう面白がってやっちゃいそうではありますね)


 僕はそれなりに生きてきて、「ああいうとき、ちゃんと挨拶したほうがいいよ」って言われて反発していた時期のことが、けっこう懐かしいのです。
 親に「勉強しろ」って言われると嫌じゃないですか、ついつい「親のプライドのために勉強させられてるんじゃないか」なんて勘ぐったりして。
 でもね、自分が親になってみると、「ちゃんと挨拶しろ」とか「勉強しなさい」という言葉以外で、相手に言いたいことを伝えるのって、難しいんですよね。
 お葬式のときの「御愁傷様でした」と同じように、「ありきたりのフォーマット」というのは、「オリジナリティを追求するのは、お互いにとって負担が大きすぎる」ときに有用なものですし、「他に言いようがない」のも事実。
 今回は、「挨拶しろ」の中に「太宰メソッド的なもの」が多すぎたことにイケダさんは辟易していたのでしょうが、だからといって「挨拶すること」が間違っているわけではありません(まあ、だからこそ「太宰メソッド」はタチが悪い、とも言えます)。


こういう場合に「心からのアドバイス」として、「挨拶したほうがいいよ」と身悶えながら口にしても、「それは、『(オレに対して)礼儀を忘れるな』ってことだろ?」と受け止められてしまうと、どうしようもない。


これまでの経緯から、イケダさんは、どうせこのネットイナゴどもは、「太宰メソッド」なんだろ、と思われている可能性が高いと思うのです。
そして、「イケダハヤト憎し」で、この内容を過大解釈、あるいは誤解している人もいるようです。
実際、僕もこのエントリのブックマークで、このエントリを「イケダハヤトは挨拶を全否定している」と受け取っている人がいることを知りました。さすがにそこまでのことは書いてないのに。
タイトルからして、あまりにも釣りすぎのエントリではあるので、自業自得ではあるし、本人的には「アクセス稼げたからOK」なのかもしれませんが。


「挨拶」って、大事なんですけどね、やっぱり。
僕も挨拶ってやつが苦手でしょうがないから、なおさらそう思います。
海外に行って、ホテルのエレベーターで異国の人と一緒になると、一瞬不安になるんです(僕は弱虫なので)。
昔、ラスベガスで、ごついアフリカ系アメリカ人の集団に、妻と一緒にからまれたときのことや、通りがかりの車にいきなりクラクションを鳴らされて、すごい剣幕で文句(たぶん差別的な内容だったと思う)を言われたりしたことを思い出してしまって。
もちろん、大部分の外国人は、そこそこ親切で、アバウトな、気の良い人々、ではあるのですが。

話を戻して、そんなエレベーターの中では、サッと緊張感が走るんですよ。
そんなとき、どちらかが「HELLO」と一声かけると、空気が緩むのがわかります。
ああ、この人は、少なくとも僕に積極的に危害を加えようとはしていないみたいだ。
そして、もう一方が、ちょっと表情を緩めて「HELLO」と返す。

そこまで切実な場面じゃなくても、職場で朝一声「おはようございます!」って言うだけでも、空気ってけっこう変わるものです。
少なくとも周囲の人は「この人は不機嫌ではない」とわかるし、「挨拶をしない理由」を探さなくても済む。


まあ、それこそ上から目線で偉そうに語ってしまいましたが、イケダさんのこのエントリを読んで苛立ってしまう最大の理由は、僕がここで書いているような「挨拶の効用」を、イケダさんはちゃんと理解している(であろう)ことなんですよ。


人格障害、コミュニケーション障害などで「本当に挨拶ができない」人が悩みながら「(挨拶できたほうがいいのはわかっているけど)オレにはできない。なぜこんなに苦しいのに、難しいのに、挨拶しなければならないんだ?」と吐露しているのなら、僕はその苦しみに、なるべく寄り添えるように努力してみたい。
僕だって基本的にはコミュニケーション苦手だから。


ところが、イケダさんの場合は「挨拶しようと思えばできるし、家では『おはようございまーす!』ってニコニコしながら起きてきているはずなのに、こんなふうにネットで『煽っている』ように見える」んですよ。
それこそ僕の思い込みで、「本当に挨拶をしようと思ってもできない人」なのだろうか……



僕自身は挨拶苦手だけど、自分自身にも、他の人にも「挨拶はしたほうがいいよ。やってみるとけっこう気持ちいいし、かえっていろいろラクになることが多いから」と言っています。
せめて手の届く範囲の人には、少しでもラクになってほしいし。


「礼儀」って言うけれど、やっぱりなんというか「じゃあ、飲み会でお酌して回るのも『常識』だよな」とか、「休日前に上司に飲みに誘われたら断るなよ」なんて言われたら、僕もつらいです(実際に断れるかどうかは、ケースバイケース、になってしまいますが)。
ネットで「礼儀礼儀」って言っている人だって、「会社の飲み会も、礼儀だから断らない」っていうほどの「礼儀至上主義者」は少数派ではないでしょうか。


あんまり「礼儀」というのを大きな言葉として使うのではなくて、「この状況では、どのくらいの自己犠牲を伴う気くばりが適切なのか?」というふうに、考えていくべきだと思うんですよね。
そうしないと「礼儀」というのは、どんどん拡大解釈されていく。


難しいところではあるけれど、そこまで切り分けていかないと「挨拶はしたほうがいい」「礼儀は大事」なんて大まかな常識でプレッシャーをかけるのは、「あたりまえ」すぎて、かえって巡り巡って自分の首を絞めることになりかねません。
こういう「常識の暴走」は、ネットの怖いところです。
実際、「殴り返してきたら、お前もオレと同じ『暴力的な人間』だからな!」ってプレッシャーをかけながら殴り掛かってくる人って、いますしね。
イケダハヤトさんは、そういう所に対して警鐘を鳴らしたい人なのだろうと思いたいけれど。


僕は「挨拶できない人」を責めるつもりはありません。できないものはしょうがない。
でも、「挨拶できるのに、わざとしない人」は、やっぱり好きになれない。
そして、「本当は挨拶できるし、挨拶の効用も理解しているのに、他者に向かって『たかが挨拶なんて、できなくてもいい』と言い放つ人」は、嫌いというか、軽蔑せずにはいられません。



参考リンク(2):【読書感想】『コミュニケーションは、要らない』(琥珀色の戯言)
 この押井守さんの新書には、いま「コミュニケーション」について考えるうえで、すごく大事なことが書いてあります。
 本を読んでいただくのがいちばん良いのですが、この感想だけでも、ぜひご一読を。

 携帯電話やネットで繋がれた世界に、本当にコミュニケーションなど存在するのか?僕には中身が空っぽのまま回線だけを無意味に増やしているように思える。

 道具を使って便利に効率的にコミュニケーションをとるというような方法論によって表層的にコミュニケーションを論じる以前に、この国にはそもそもコミュニケーションの内実が存在しない。我々はまず、そのことに気づくべきだろう。

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