いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

他人を傷つけるということと、自分を傷つけるということ

参考リンク:裁判員裁判メモ(その4)(invisible-runner)


この「参考リンク」の話、なんともいたたまれないとしか言いようがありません。
なんか他に方法はなかったのか、とか、子供を道連れにする必要はないだろう、とか思うのだけれども、こういうときの人間というのは、たぶん正常な思考ができなくなっている状態でもあるのでしょう。
だからしょうがない、とも割り切れないし……


僕はこれを読みながら、考えていたのです。
この男、娘、浮気をした妻、その相手の男などはさておき、この人を「死ね」「土下座しろ」と罵倒した取引先の人は、この事件のことを知って、どんな心境だったのか。
「ざまーみろ」なのか「そこまでのことは考えていなかった」のか。
「自分には関係ない」と思ったのか、「自分の罵倒がなかったら、違う結果になっていたかもしれない」と思ったのか。


本当に、わからないんですよ。
「土下座しろ」と言われるような失敗というのは、もしかしたら、取引先の人にとっても自殺を考えなければならないほど大きなものだったのかもしれないし、あるいは、クレーマー気質だっただけなのかもしれない。
ただ、自分がそうやって他人を罵倒したあとに、こんな事件が起こったら、やっぱり「自分にも少しは責任があるのかもしれない」と考えるのが「普通」ではないかと。
もしこの被告が、こんな状態に置かれていることを知っていたら、そんなに強い言葉は浴びせなかったのに、と。


僕は最近、よく考えます。
対面から、手紙、電話、そしてネット。あるいはマスメディアを通じて。
僕たちの「手の届く範囲」「言葉を伝えられる範囲」は、どんどん広がってきました。
この場合は「取引先」でしたが、ネットでは、一面識もない人に酷い罵声を浴びせることだってできる。
相手のコンディションは、よくわからないままに。


それで、相手はたぶん傷つく。
もちろん、スルーできる人もいるだろうけど。


その一方で、そういう言葉を投げつけている自分もまた、「誰かを傷つけてしまうリスクを負ってしまう」のも、忘れてはならないと思うのです。
日常生活で「死ね」と誰かに言うのは、よっぽどのことでしょう。
あるいは、仲が良い相手との「じゃれ合い」。


ネットでは、わりと簡単に他人を責める言葉が出てきてしまう。
「みんなも言っている」し。
でも、それで誰かが命を落としたとしたら、大部分の人は「そんなつもりで言ったのではない」あるいは「相手が弱かったからだ」と思うはずです。
それはそうなのかもしれない。
しかしながら、そういう体験は、おそらく、そんな言葉を吐いてしまった自分自身をも傷つける。
「あれは、自分にも責任があったのではないか?」と。
もちろん、「声をかければよかった」と後悔することもあるのだろうけど。


「自分の手が届かないところにも声が届く」っていうのは、けっして、良いことばかりじゃない。
それはわかっているつもりでも、ついつい、声を出してしまう。
めんどくさい時代を生きているな、と思う。

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