いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「何もできないこと」について考える

アルジェリアの人質事件のことについて書こう。
というか、僕自身は海外の知識は乏しく、海外で働いた経験もないので、その周辺のこと、になってしまうのだけれども。


実名報道、については「家族がそれに伴って心を乱されるのを嫌がっているのなら、報道するなよ」と思っていた。
でも、先週の金曜日の夕方、中華料理屋で麻婆豆腐定食をひとりで食べながら、NHKのニュースを観ていたら、なんだかとても悲しくなってしまって。
そこには、被害に遭った方々の名前と年齢が並んでいた。
僕は海外でキツイ仕事をするのは、きっと若くて体力がある人ばかりなのだろうな、と思い込んでいたので、犠牲になった多くの人が、40代〜50代、つまり、自分より年上であったことに驚いたのだ。
そして、「年齢」を知っただけでも、「10人」という数字だけではわかない「実感」みたいなものが、じわじわとわいてきた。
彼らは、アルジェリアに武者修行に来たわけではなく、即戦力のエンジニアとして、やって来たのだ。
いろんな事情があっただろうと思う。
若い人が少なかったのには、現地で若手を育てるほどの余裕がない、という今の日本の状況も想像してしまった。
「日本とアルジェリアの友好のため」という気持ちもあったかもしれないし、「海外赴任手当(あるいは危険手当)」みたいなものもあったかもしれない。
「海外で自分の力を試す」というロマンを感じていた人もいただろうし、「会社命令なので、気が進まないけど、まあしょうがないか」と考えていた人もいただろう。
亡くなった人たちの心の中は、勝手に想像するしかない。
ただ、どんな過程でアルジェリアに来たにせよ、怖かっただろうな、悔しかっただろうな、とは思う。


たぶん「犠牲者は10名、すべて男性」という情報だけでは、こういう気持ちには、ならなかったはずだ。


ある戦場カメラマンが、戦地でのこんなエピソードを書いていた。
敵(それはアメリカ軍だったり、国連軍だったりもした)の空爆で犠牲になった人の家族が、カメラマンの手を引いて、ズタズタになった遺体のところに連れていき「こいつの顔を撮ってやってくれ。そして世界に伝えてくれ。名前は○○だ」と頼むのだそうだ。
あまりにも圧倒的な力に押しつぶされてしまった人たちは、もう「ジャーナリストに頼る」しかない。
それが何か劇的な解決をもたらすと信じているのかどうかはわからないけれど、彼らは、無惨な姿になった家族を、カメラの前に晒そうとするのだ。


日本はまだ、平和なのだ。
少なくとも、マスコミを疑えるくらいには。
あるいは、平和であると、みんなが信じている。
もし日本が「戦場」であったならば、「実名報道論争」なんてものは、起きなかった。
亡くなった方々は、「国のエネルギー政策のために遠くアルジェリアにまで行って、テロの犠牲になった英雄」としてまつりあげられたに違いない。
その一方で、「そうやって、海外で危険を顧みずに働く人たち」のリスクを実感させないために、国策として「実名」を避けるという判断がなされる可能性もある。


今回は、そのどちらでもなかった。
そこに議論があるのは、たぶん「健全」なことなのだ。


どんな時代にも、どんな場所でも、リスクを取って生きる人はいる。
戦地で働くことを自ら選ぶ国連職員に「危ないですよ」とは言えても、「だからやめる」かどうかは、本人の人生観でしかない。
日本でも、つい最近、原発事故の際に原発事故の収束のために危険をおかした人たちがいた。
彼らに対して僕ができたのは「敬意」と「感謝」を捧げることだけだった。
なんというか、そこで「じゃあ、自分がやります」と言えないのは情けないし、恥ずかしい。
そんな技術を持ってないし……とか言い訳をしてみるのだが、持っていたって、できなかっただろうなあ。


そもそも、警察官や自衛隊員、レスキュー隊などは、「常にリスクと向き合う仕事」なのだ。
そして、エネルギーというのは、人の命を求めている。
炭鉱の事故では、日本だけで、5000人以上が亡くなっている。

うーん、なんだかうまくまとまらないのだけれども、今回も僕は犠牲者の方々に「敬意」と「感謝」を捧げることしかできない。
無力だ。本当に何もできない。
でも、「何かができる」と考えることこそ、傲慢極まりない気もするんだよなあ。

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