いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です」をめぐる議論について

参考リンク(1):13歳の息子へ、新しいiPhoneと使用契約書です。愛を込めて。母より(Hana.bi) - BLOGOS(ブロゴス)


参考リンク(2):iPhoneの使用契約書の記事を読んで感動する人は親になる資格などない。(はてな匿名ダイアリー)


この件について雑感など。
僕が<参考リンク(1)>の記事を読んで最初に感じたのは、「ずいぶんとめんどくさいお母さんだなあ」でした。
書いてあることには、いちいちごもっとも、ではあるのだけれど。
とはいえ、<参考リンク(2)>ほどの反感もないというか、「親になる資格」なんて言い出したら、本当の「有資格者」なんているのだろうか?と、今日も服を着替えず、ご飯を食べてくれない子どもにイライラしていた自分を思い返してしまうわけです。
「子どもにもプライバシーが必要」
それはそうだ。
しかし、僕は「子どものプライバシーを尊重していますから」という親の元、自室でシンナー吸っているような子どものことも知っているわけで、「自由」っていうのは、ある種の「責任放棄」につながることも少なくないとは思うんだよね。オールフリーっていうわけにもいかない。
じゃあ、どのくらい「制限」するのか?というのが問題なわけで。


子どもと電子ガジェットのつきあいかた、というのは、うちの家族にとっても問題になってきていて、僕のiPhoneのゲームで遊びたがる息子と、「小学校に上がるまでは、テレビゲームは禁止」という持論の妻との間で、どのくらいが正解なのかなあ、なんて考えてしまうのです。
僕は、「どうせこれからの時代を生きていく上では、携帯電話やネットを避けて通ることはできないのだから、早めに慣れさせてもいいのではないか」なんて考えてもいるのですが、その一方で、僕くらいの30代後半〜40代くらいの親は、「ネットの力」というのものを、甘くみているようなところがあるような気がしています。


どうしても、「大人になって、いろんな都合の悪いところが削られた過去の記憶で、いまの子どもをみてしまう」ところがあるんですよね。



『証拠調査士は見た!』(宝島社)という本のなかに、大部分の親が知らない社会の裏側(小学生が麻薬の「運び屋」にさせられているなんて、思わないですよねいくらなんでも)がいくつも紹介されています。

しかもその「入り口」は、身近なところにあるのです。

 最近の小学生はニンテンドーDSスマートフォンを通してネットと密接につながっている場合が多い。どちらも親の目が届かないところで自由にネットを楽しめてしまう。ところが、ニンテンドーDSがネットにつながることを知らない親御さんは実に多い。

僕は自分の親世代があまりにコンピュータやネットのことを知らないので、ちょっと呆れてしまうことがあるのです。


しかしながら、それはいまの子どもたちにとっても、おそらく「同じこと」で、親世代の「常識」というのは、子どもたちの「常識」とは、ズレてきているんですよね。

 ある調査では、子どもが初めて手にするネット接続機器の6割がニンテンドーDSだという。

今なら3DSということになるのでしょうが、携帯ゲーム機というのは、「ゲームボーイ」で育った僕には想像できないほど、多機能化しているのです。
むしろ、昔の携帯ゲーム機を「知っている」からこそ、盲点になりやすい面もありそうです。


僕としては、iPhoneを使用するためにかかるお金は、けっして安いものではないし、子どもが実行してくれるかどうかはさておき、いくつかの「戒め」を明文化しておくのは、そんなに悪いことじゃないと思います。



実は、僕がいちばん気になっているのは、このお母さんが、「我が家の教育方針を、ネットでわざわざ公開したこと」なんですよね。
この戒めが子どもに与える影響よりも、こういうふうに「自分の子育てを実況中継できるシステムが、親の側に与えている影響」について、親になってしまっている僕としては、考え込まずにはいられません。


僕が子どもだったら、親にこういう訓戒を受けたとしても「はいはい、とりあえず言うこときいておいて、iPhone手に入れてから考えよう!」くらいのものだと思うんですよ実際は。親も「ポルノ見るなよ!」って言いながら、男の子の部屋で「エロ本探し」にワクワクしていたりもするものです(全部の親がそうとは言いませんが)。

こうやって、「自分の素晴らしい子育てをアピールする場」ができたことには、功罪両面があるでしょう。
必要以上に「美化」してしまうこと、「過剰な正しさ」を求めてしまうことがある一方で、「他人の目に触れている」ことにより、「よりよく行動しよう」あるいは「酷いことはできない」という枷にもなります。
キャラ弁」なんてさ、ネットとかで大勢の人に見てもらうという目的がなければ、あれだけのものを続けて作れる親なんていないんじゃないかな。

でも、親をやっていて思うのは、子育てっていうのは、さっきのエロ本探しじゃないけれど、親の側にとって「誠実な苦行」になりすぎてしまってはいけないと思うんですよ。小さなことでも楽しみながらやる、くらいのご褒美はあってもいいんじゃないかと。


親になってしまうと忘れがちなのですが、子どもっていうのは、世界が狭いし、「気にする」生き物です。
この件については、正直、「こんなに話題になっちゃうと、いろいろ問題になるかもしれないな」と感じます。
内輪でやっている分については、「まったく心配性の母さんだねえ」で済む話でも。


椎名誠さんに『岳物語』という息子さんとの交流を描いた名作があるのですが、ある日椎名さんは、「おとう、もう俺のことは書かないでくれ」と頼まれたそうです。
他者からみれば「心温まる交流」であっても、当事者にとっては、そんなふうに他人から「ああ、あの子か」という目で見られること自体が嫌で嫌でたまらない、そんな場合もあります。
ちなみに、椎名さんの娘さんは「自分のことが父親に書かれていない」ことに、少し傷ついていたのだとか。
難しいよね、本当に。


僕も自分の子どものことをネットに書くことがあるので、他人事ではありません。
ネットで他人の子育ての様子を知ることで、救われる事例もあるので、いちがいに悪いとも言えない。
でも、そういうふうに他人の目に触れさせることが、正しいと言い切る自信もない。


このiPhone親子に関しては、「まあ、息子のほうもそれなりにうまくやるんじゃないかね」と思います。
彼らにとっての大きな問題は、勉強や部活やクラスでの人間関係であって、「母親がiPhoneを自由に使わせてくれない」ことじゃない。
それに、いまの子どもたちは、親世代が驚くほど、ネットに精通しています。


いやほんと、何が正しいかなんて、僕にはよくわからないよ。
ただ、親と子の関係というのは、他者があれこれ決めつけられるようなものじゃないとは思うのです。
「ただ自由にさせておけばいい」のなら、苦労しないんだけど、子どもっていうのは、生まれたときから「やりたいようにやらせている」と、たぶん、本人がなりたいものにはなれない。
「やりたいこと」を見つけるためには、ある程度の基本的な能力が必要だし、そのためには「教育」が不可欠です。


この2つの意見には、どちらも正しいところがあるし、間違っているところもあると思います。
個人的には「親子の関係というのは、他人に見せびらかそうとすると、嘘になる」これだけは、事実だと感じているのだけれども。

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