いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「口だけの人」が世界を変える

『社会契約論』で有名なルソーは、『エミール』という教育論でも知られているのですが、実は、ルソーは自分の5人の子どもを孤児院に入れています。
「父親としてやっていく自信がない」という理由で。

 押井守さんが、著書『立喰師、かく語りき。』のなかで、こんな辛辣な宮崎駿評を書いておられます。

(引用はじめ)
押井:この間の『ハウルの動く城』だって、「CG使ってないんだ」って宮さん(宮崎監督)は言い張ってたけど、現場の人間は使いまくってるよ。あの人が知らないだけだよ。まるきり裸の王様じゃないか。それだったら、自分の手で(CGを)やったほうがよっぽどましだ。いや、わかりやすくて面白いから、つい、宮さんを例に出しちゃうんだけどさ(笑)。


 いかに中性洗剤使うのやめたって言ったところで、結局は同じことじゃない。宮さん、別荘に行くとペーパータオルを使ってるんだよ。そのペーパータオルを作るために、どれだけ石油燃やしてると思ってるんだ。やることなすこと、言ってることとやってることが違うだろう。そこは便利にできてるんだよね。自分の言ったことを信じられるってシステムになってるんだもん。
(引用おわり)


 このルソーさんとと宮崎駿さんの場合を同列に語って良いのかどうかは微妙なところなのですが、まあ、いずれにしても、「この人たちに、他人に『正論』を主張する資格があるのか?」という疑問を持つ人はいるはずです。
 個人的には、ルソーさんのほうがひどいな、とは思います。
 もしルソーの時代に『2ちゃんねる』があったら、「ルソー祭り」が繰り広げられていたはずです。
 
 
 あくまでも僕の個人的な見解なのですが、歴史というのをみていると、「立派な理念を生みだしてきたのは、必ずしも立派な人間ではない」のですよね。
 「こんなヤツとは、絶対に友達になれない」ような人間が、素晴らしい理念を提唱したり、(芸術的にも政治的にも)革命を起こしたりしているのです。
 斬新な思考というのは、「正規分布を外れた人間」から出てくる可能性が高いものですし、そういう人間が「常識人」である必然性はありません。
 そもそも、多くの場合、「革命的な理念」を考える人と、「革命を行う人」は異なりますし。


 まあ、あんまり大きな話にしてはいけないのですが、僕は、「主張している人の人格や行動と、その主張や理念の内容は、ある程度切り離して考えたほうがいいこともある」と思うのです。
 逆に「立派なことをやっている人だって、必ずしもみんなにとって正しい行動や理念を発信しているわけではない」ですし。


 ちょっとわかりにくくなってしまったのですが、簡単に言うと、「あまりに言行一致を求めすぎると、誰も何も言えなくなってしまうのではないか」って話なんですよ。
 あるいは「口だけの人」が、世界を変えることもある。


とはいえ、こうしてネットで「時の人」の情報が氾濫し、みんなからチェックされるような世の中の流れが急に逆行することはありえないでしょうし、「『正しいこと』を主張して、反感を持たれない」っていうのは、どんどん難しくはなっていくのでしょう。


その一方で、作家の西村賢太さんみたいな、自分の好きなもののために女性に暴力を振るった経緯を赤裸々に語る「無頼派」が「面白い!」と共感されるのもまたネット社会、でもあるんですよね。


「ネット時代」っていうのは、「年齢とか社会的な立場とか関係なく、みんなが積極的に、フラットに話しあえる時代」になることを僕は期待していたのだけれど、実際はそんなにうまくはいかないものですね……

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