いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

orangestarさんとdankogaiさんの「いじめ対策」への反応について

参考リンク(1):いじめについて - orangestarの日記

参考リンク(2):404 Blog Not Found:あなたを逃せるのは、あなただけ


この2人をはじめとして、今回の大津の事件で、「いじめに対して、どう対応すべきか」をたくさんの人たちが書いています。
それは、「先人の知恵」として、少しでも、「いま、いじめられている人たち」に伝わってくれればいいな、と思う。


でも、今回のいじめに対するネット上の盛り上がりをみていると、なんだかとてもいたたまれない気分になるのです。
ここで紹介した2つの文章は、僕の観測範囲で多くの人に読まれているものなのですが、それぞれへの反応、とくに後者への反応は「やっぱり弾さんはマッチョだ。こんなこといじめられているヤツが実行できるわけないだろ」みたいなのが多いようです。
いやまあ、僕も読みながら、そう思っていたんですけどね。
自分には真似できなかっただろうな、って。


Orangestarさんだって、結果的にその「想像力」を仕事にして成功したから、そんなふうに言えるだけで、ヘンリー・ダーガーの人生が幸福だったかどうかなんて、誰にもわからない。たぶん、本人もよくわからなかったんじゃないかと思う。ああいうふうにしか、生きられなかっただけで。
世の中には、死んだときに「作品」を即座にゴミ箱に捨てられてしまったヘンリー・ダーガーだって、たくさんいたのではないかな。


僕はこうして、いろんな人たちが、その人なりに「イジメに対して、どう向き合ってきたか」を語るというのは、すばらしいことだと思っているんですよ。
だって、これまでの「イジメに対するコメント」って、いわゆる「有識者」とか「成功者」とか、明らかにイジメられた経験があるとは思えない人ばかりだったしね。
大事なことは、「いろんな人が、自分の経験も含めて、いろんな対策や解決策を提示していくこと」なんじゃないかな。


「イジメ」と十把一絡げにされがちだけれども、その中には、いろんなものが含まれています。
今回の大津の事件のような、肉体的・精神的な苦痛を伴う激しいものから、周囲から無視されるだけ、というもの、あるいは、他者からの明らかな作用がなくても、なんとなく疎外されているような気がして、自分の孤立感を拭えなくなってしまう、というものまで。


内向的な人もいれば、もともとは外向的なのに「ウザイ」と言われて萎縮している人もおり、「みんなが仲良くしてくれない」と悩んでいる人もいれば、「みんなは自分をわかってくれない」と(ふつうの生活をしながら)適応しきれない人もいる。


これだけさまざまな形があるのに、「正しい対策」がひとつなんてことはないはず。
Orangestarさんのやりかたが合う人もいれば、弾さんのやり方が参考になる人もいるのです。
もちろん、それ以外のやり方が向いている人も。


でも、ネット上では、「そんなことできるわけねーだろ!」という声がかなり大きい。
弾さんは、そういわれるのを百も承知で、あえてああいうマッチョなことを書いているんじゃないかと思うのです。
「イジメられている」人のうち、1%でも、弾さんのやり方で、そこから抜け出せる人がいるなら、という考えのもとに(またネットの人たちに、お前はエスパーか、って言われるのだろうな)。


ネット上には、「たったひとつの解答」を求めているのか、他者からの提案を「それは違う」「そんなことできるわけない」と否定するのに熱心な人もいるのですが、それは、果たして誰のためなのでしょうか?
僕には、「自分は正解を知っている(ように見せたい)」という優越感ゲームにしか思えないんですよ。


本当に、いま、困っている人を助けたいと考えているのならば、「助けるための選択肢」は、多ければ多いほど良いはずです。そりゃあ、あまりにおかしなものまで入れていくと、選ぶ側も大変になっちゃうけど、自分にとっては「極論」のようなものがフィットする被害者だって、たぶん、いるはず。
いやむしろ、「誰もが思いつくような一般論」では、どうしようもないところにいるのだとすれば、「極論」こそ、「誰か」を救うヒントになるのかもしれません。


「正解」はひとつじゃないし、それを選ぶのは、「傍観者」である僕やあなたではない。
「世の中には、いろんな考え方の人がいる」というのを認めるのって、「イジメ」をなくす第一歩であり、最終目標でもあるはずです。
まず、「傍観者」からでも、少し考え方を変えてみませんか?

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