いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

どんなに面白いブログでも、過去ログだけでは生きていけないから。

4か月くらい放置していたこの『はてなブログ』なのですが、もともとはてなダイアリーのほうでボーダーレスに書きたいことを書いていたので、別にいらないかなあ、っていうのと、サブブログ的なものを書くとしても、「はてな」ばっかりで、「はてな」と一緒に海の藻屑となるのもどうなのか、と。

 

で、今日ここで書こうと思ったのは、例の「はてな」界を代表する人気ダイアリーの突然の閉鎖についての僕のものすごく個人的な感想です。

 

僕自身、何度か「ネット自殺」的なことをやったことがあって、実際、それで一度個人サイトを閉じてもいます。いや、そのときは「自殺」っていうよりさ、「ネットであれこれ書いていて、こんな内幕バラシ系のネタは受けるのか、じゃあ、これはどうだ、もっと過激なのが欲しいかホレホレ、ってやってたら、軽やかに社会人としてのリミッターを踏み越えていた、っていう感じだったんですよね。

バカだなあ、と自分でも思うけど、そういう見境がつかなくなるのが、「ネットで肥大化してしまった自意識」の恐ろしさ。

ちなみに、そのときは、30通くらい「励ましのメール」をいただきました。

子供が生まれたときのことを思い出しても、好意的に読んでくれている人って、普段はとても寡黙なのです。

 

その後、プチ炎上したり、ブックマークでキツイコメントをたくさん書かれたりして、何度か「休養」したことはあります。

誰にも知らせずに、新しいブログを立ち上げたりもしたのだけれど、一度、それなりの数の人に読まれるのに慣れてしまうと、「誰も読んでくれない文章」を書くのはけこう辛かった。いままでのブログに同じことを書いたら、この100倍くらいの人が読んでくれたのだなあ、と考えたりして。

 

なんとなく、僕はネットで生かされているような気がするんですよ。

はじめて個人サイトを始めたのが、10年以上前の同時多発テロの直後。

あれから10年、職場も4カ所くらい変わったり、結婚して、子どもも生まれた。

でも、その10年のあいだ、僕のブログは、ずっとそこにあったのです。

ひとつの職場を去る日も、新しい職場に来る日も、僕のブログは、必ずそこにあった。

更新して、そこに人が来てくれて、ときどきはホットエントリになったりするのが、単調な僕の日常の喜びだったのです。

最近感じているのは、友人関係は転勤でおおかたリセットされるけど、家族とインターネット上の自分だけは、どこに行っても、追いかけてくるものだな、というものです。

もちろん、家族は離れてしまう場合もあるのでしょうけど(あんまり考えたくないが)。

 

来月から、新しい職場に行くことになり、それはすごく不安なことなのですが、それでも、ネットには、昨日と変わらない僕がいて、ブログの更新をしているわけです。

僕にとっては、それがとても心強いことなんですよ。

ある意味「しがらみ」でもあるのだけれども。

 

ブログを続けていると、ややこしいこととか面倒なこと、傷つけられてしまうこともたくさんあるし、「やめる!」って言ったら、「やめないで!」「好きでした!」っていう、普段は聞けないような「愛情表現」を受けることができるんじゃないかな、って思うこともあります。

 

でもね、結局のところ、どんなに面白いブログでも、過去ログだけでは生きていけない。

人が、過去の記憶だけでは生きていけないように。

うちのようなつまらないブログでも、長年書いていれば、波長が合うと言ってくれる人もいるのです。

だから僕は、あなたがいなくなっても、ここで書き続けるつもりです。

ときどき休んだり、腹を立てたりしながら。

 

どうせあと何十年かすれば、イヤでも退場しなければならないのだしね。

 

 

 

 

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