いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

インターネットと「人生のリアリティショー化」

このあいだ、『ラーメンと愛国』という本を読んで、「人生のリアリティショー化」について考えてしまった。

ブログに日常を書くというのは、「自分の人生を客観視できる」一方で、「自分の人生を自分で演出したい(面白いことをやって、面白い人生に他者に見せたい)」というほうに向かっていく危険をはらんでいる。

先日、富士急ハイランドに行って、『FUJIYAMA』という巨大ジェットコースターに乗った。

僕は絶叫マシーンというやつが大嫌いだったのだが、「せっかくここに来たのだから、話のタネに」乗ったのだ。

もしブログを書いていなかったら、「乗りたくないから乗らない」で終わったと思う。

映画にしても、ブログに感想を書くという習慣がなければ、がんばって時間をつくって、こんなにたくさん観なかったのではないだろうか。

 

アウトプットすることができる環境というのは、「アウトプットすべきことをつくらなければ」という焦りを生む。

もちろん、それは僕の人生にとって、プラスになっている面はあるだろう。

その一方で、「本来の自分」とはかけ離れた方向に進んでいるのではないか、という不安もある。

でもまあ、人間が「カッコいいけど自分がトクしないこと」をやるのは、自分の人生を、ひそかに「リアリティショー」として演じている場合が多いような気もするんだよね。

 

織田信長が、本能寺で最期に「敦盛」を舞ったという伝説があるのだが、これって、「日本史上有数のリアリティショー」なんじゃなかろうか。 少なくとも、生命維持の観点からすれば、舞ってるあいだにできることだってゼロではないはずだ。

でも、信長は、「織田信長の人生」を、最後までプロデュースして死んだ。

 

インターネットが、人生をリアリティショーにしたというよりは、インターネットのおかげで、自分が役者であることに気づいた人が多いと考えるべきなのかもしれない。 もちろん、大量殺人みたいな「アウトプット」は迷惑だからやめていただきたいものだが。

 

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