いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

没後30年、「漫画の神様」手塚治虫先生に関する証言集


 本日、2019年2月9日は、手塚治虫先生の没後30年にあたる日だそうです。
 僕にとっての手塚先生は、物心ついたときには、「ちょっと前に活躍していた人気マンガ家」という印象で、作品を読む機会もあまりなかったのですが、小学生の頃、父親が「この本が面白いらしい」と『ブラック・ジャック』を買ってきて、それを家族で読むようになったんですよね。
 父親なりに、子どもに医者の道への興味を持たせよう、という作戦だったのかもしれませんが、僕に与えた影響は、「手術料は3千万円!」とか、つい口にしたくなる、というのがいちばん大きかったような気がします。まあしかし、面白かったよなあ、『ブラック・ジャック』は。
 高校時代に、手塚先生の訃報を耳にしたときには「昭和の終わり」を多くの人が感慨深そうに語っていたのだけれど、僕は高校の図書館で、『週刊ジャーナル』に連載されていた『ネオ・ファウスト』を読むのを楽しみにしていたので、この作品が未完になってしまったことがとても悲しかったのです。
 『火の鳥』や『アドルフに告ぐ』『陽だまりの樹』『ブッダ』などは、大学時代、漫画の文庫化がブームになった際に読んで、それぞれ感銘を受けたのをよく覚えています。
 『火の鳥』で、生き埋めにされた人たちが、火の鳥の血を舐めたおかげでずっと生きている、という話は、なんだかすごく怖かった。


 ということで、今日は、手塚先生について書かれた本をまとめて紹介してみようと思います。
 手塚先生自身の作品を読むのが、いちばん良いのではないか、という気もするのですが、「周りからみた『漫画の神様』と、その影響」を、あれから30年経ってしまったのか、という感慨とともに考えてみたいのです。




(1)アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

アニメ作家としての手塚治虫―その軌跡と本質

fujipon.hatenadiary.com


この本にも引用されているのですが、手塚さんが亡くなられた1989年に、宮崎駿監督が、

「アニメーションに対して彼(手塚治虫)がやった事は何も評価できない。虫プロの仕事も、ぼくは好きじゃない。好きじゃないだけでなくおかしいと思います」
「昭和38年に彼は、1本50万円という安価で日本初のテレビアニメ『鉄腕アトム』を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に安いという弊害が生まれました。それ自体は不幸のはじまりではあったけれど、日本が経済成長を遂げていく過程でテレビアニメーションはいつか始まる運命にあったと思います。引き金を引いたのが、たまたま手塚さんだっただけです。ただ、あの時期彼がやらなければあと2、3年は遅れたかもしれない。そしたら、ぼくはもう少し腰を据えて昔のやり方の長編アニメーションの現場でやることができたと思うんです」

と、「手塚アニメ批判」をされてから、手塚治虫という人は、「日本のアニメーション関係者を貧乏にした元凶」のように言われ続けてきましたし、僕もそういうイメージを持っていたのです。
 手塚治虫は、自分の理想のために、たくさんの人を犠牲にしてきたのだ、と。
 しかしながら、この本を読んでみると、確かに、手塚治虫がアニメの『鉄腕アトム』を安売りしていたのは事実なのですが、その一方で、手塚さんは「アトム」によるキャラクタービジネスなどで、それなりに収支は合わせているんですよね、全体としては。それに、著者や参考リンクでの夏目さんもおっしゃっているのですが、「待遇」の問題を手塚さんひとりの責任にしてしまうのは、あまりに理不尽なことなのです。そもそも、手塚治虫以後にも、待遇改善の機会はあったのでしょうし、この問題に関しては、宮崎駿監督自身だって、むしろ「批判されるべき立場」でしょう。
 ただ、手塚治虫という人は、「最高のマンガ家」であった一方で、「経営者としては問題があった」のも事実で、「自分の苦手なことは人に任せる」ことができないタイプの人だったというのは、「不幸のはじまり」ではあったのでしょうけど。

ちなみに、『鉄腕アトム』は、毎週放送するために、「アニメーションとしてのクオリティ」をかなり犠牲にしていた面があった、というのを、この本で、はじめて知りました。コストや時間削減のために動画の枚数を減らしたり、キャラクターの「動き」そのものを少なくしたり、「使いまわし」と積極的に行っていったり……
今になって考えてみると、手塚先生は、手塚先生なりにコスト意識を持って、工夫をしていた、とも言えるのではないかと。




(2)手塚先生、締め切り過ぎてます!

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書)

手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書)

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昭和59年(1984)に手塚先生が帝国ホテルで倒れたときのエピソード。

 先生は憔悴した様子で「ああ、福元氏が来てくれたのか」と言われたので、私は「どんな具合ですか」と尋ねました。
「うん、今ホテルのクリニックへ行って、注射を打ってもらったので、しばらく仮眠してからチェックアウトしよう。それまで悪いけど、新聞でも読んで待っててよ」とのころで、1時間ほど仮眠を取られました。
 その後、目を覚ました先生と一緒にタクシーで手塚プロに向かったのですが、先生は突然、私にこんなことを尋ねました。
「福元氏、入院したら読者から忘れられてしまわないかね」
 一瞬何のことかわからず、怪訝な面持ちで先生を見ると、「作家と読者って作品を介してしかコンタクトはないじゃないか? 入院したら作品は描けなくなってしまうだろう?」と言われます。
 ビックリした私が「入院されるんですか?」と尋ね返すと、しばらく間があって「うん、ひょっとしたらね。これはオフレコだよ」とのこと。
 しかし、こんなビッグな人が、自分の体のことよりも人気のほうが心配になるとは……私には想像もできなかったことなので、あらためて作家の業を感じました。

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 誰もが認める偉大なマンガ家であったにもかかわらず、手塚先生は、つねに「危機感」に追われていたのです。





(3)ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘 (文春文庫)

ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘 (文春文庫)

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手塚るみ子さんによる「まえがき」の一部です。

 中学生の夏休みのこと。いつものように父は箱根旅行を計画したのですが、わたしは吹奏楽部の合宿と重なり、また家族旅行がかったるい年頃にもなっていたので、「わたしは行かないよ」と断ったことがありました。父はすっかり不機嫌になり、子供のようにふてくされていました。結局「忙しいお父様が、せっかく予定を立てたんだから」と母に説得され、半ば強制的に家族旅行へ参加させられたのですが、仕事に追われていた父は最後まで旅館に現れず、「こんなんだったら合宿にいればよかった」と、わたしはさんざん母に文句を言ったものです。
 漫画家の先生のなかには、父に仲人を頼むこともあったそうですが、大遅刻したり、ひどいときには現れなかったりしたそうです。「そんなことなら引き受けなければいいのに」と思うのですが、いま思えば、人に頼りにされるのが嬉しく、誰かを喜ばせたい一心で、安請け合いしちゃうんでしょうね。それもこれも、父のサービス精神の現れかと。人と楽しませること、喜ばせることが、手塚治虫の創作の源。生来のエンターテイナーです。

 こういう話を読むと、「みんなを喜ばせたい気持ちから、人の頼みを断れずに、スケジュールを詰め込みまくってにっちもさっちもいかなくなっている手塚先生の姿が浮かんできます。頼む方も考えればいいのに……と思うけれど、頼まれないと、それはそれで、手塚先生のようなタイプはへそを曲げてしまいがちなのだよなあ。





(4)神様の伴走者 手塚番13+2

手塚番 ?神様の伴走者? (小学館文庫)

手塚番 ?神様の伴走者? (小学館文庫)

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「手塚番」のひとり、講談社丸山昭さんへのインタビューへの一部です。

――さて、たくさんの選りすぐりの才能を目にされてきた丸山さんから見て、手塚先生の、さらに突出したところってなんですか。

丸山:あの人は人に優れた能力があるだけでなく、人の持たない能力を持った異能の人だと思うんですよ。例えば、あの人の記憶力は、直感像という、デジカメと同じで、思い出そうとすると、原稿のどの場面でも瞬時に、たぶん見開き単位で頭の中に出てくるんですよ。これは、松谷さん、手塚プロの社長に聞いた話ですが、まだ、ファックスがなかった時に、アメリカから絵柄を送るのに、こっちに方眼紙用意させといて、その目盛を座標のように使って絵柄を電話で伝えたらしいんです。帰ってきた時、アシスタントが、「先生、オリジナル見せてください。受けたものと照合したいんで」っていったら、「そんなのないよ」って。「全部頭の中だよ」って。


(中略)


――手塚番だった丸山さんにとって、手塚先生って……


丸山:No man is a hero to his valet. (英雄も側近の目にはただの人)っていうでしょう。
 従卒から見ると、英雄もただ人だって。あれです。横で見ていると、手塚さん、わがままだし、やきもち焼きだし、原稿遅いし、約束守んないし。「こんな野郎とは、1日でも早く別れたい」と思うけど、遠く離れるとね、富士山じゃないけど、その高さ、姿の美しさがわかる。手塚さんが手塚番を虜にするのはそこですね。


 身近な人の率直な「手塚治虫像」として、とても貴重な証言だと思います。




(5)ブラック・ジャック創作秘話〜手塚治虫の仕事場から〜

fujipon.hatenadiary.com


このマンガを読んでいると、何度も「絵の力って、すごいなあ」と感心させられます。
手塚先生の仕事ぶりを、元チーフマネージャーの福元さんは、

 当時入居していたビルは全館冷房で、深夜12時になるとストップするんです。
 手塚先生は汗だくで 鉢巻きをしめ
 貧乏ゆすりをしながら
 まるで 肉体労働者のように
 眼で原稿を喰らうように描いていました。

と話しておられたそうです。
僕も福元さんが書かれた本を読んだことがあり、こういう手塚先生の「執筆風景」を知っていたつもりだったのですが、どんなに頭で想像しても、このマンガで作画の吉本浩二さんが描かれている「手塚治虫の、けっしてカッコよくはないけれど、鬼気迫るようなマンガを描く姿」ほどの「説得力」は無いと思います。
上手くはないかもしれないけれど、「アツい絵」なんですよ、これは。
そして、このマンガの世界に、その絵が、すごくうまく嵌っているのです。




あといくつか、手塚先生に関するエピソードを御紹介しておきます。



週刊プレイボーイ2002年4月23日号・赤塚不二夫(漫画家)と武藤敬二(プロレスラー)の対談記事より抜粋。

赤塚不二夫「僕も実は最初は手塚治虫さんのマンガを真似して書いてたの。修行中はね。でも、ある日、手塚先生に言われた。「人の真似をしたら、真似た人の線まではいくよ。でも、それ以上はいかない。自分で開拓しなさい。そのためにはいい映画を見て、いい音楽を聴いて、いい本、いい芝居を知って、そして自分を見つけなさい。マンガは読んじゃダメ。マンガからマンガを真似するのは愚の骨頂だよ」って。僕もそうしたよ。映画だったらマルクス兄弟チャップリンキートンボブ・ホープ。彼らのギャグのエッセンスを取り入れて自分のストーリーを考えた。



ブラックジャック完全読本」(宝島社)の「BJ秘話」より。

ブラック・ジャック完全読本 (宝島社文庫)

ブラック・ジャック完全読本 (宝島社文庫)

<『B.J』の連載が終了したわけ>
  あれだけ人気を博した『B.J』が連載を終了したのにはそれなりの理由がある。
 手塚治虫自身「本当はもう少し続けてもよかった」と言っている。だが、こうも言っているのだ。
 「あまりにも制限や制約の多さに、描きようがなくなってしまった」
 いろんな団体や組織から、これを描いてはいけない、あれは描いては困る、という抗議がいろいろきて、しまいにはB.Jは、ただのケガを治す救急医師みたいな立場になってしまい、病気はほとんど扱えなくなってしまったのだ。こうして、名作は終わりを告げたのである。



絶望に効くクスリ Vol.11』(山田玲司著・小学館)より。

絶望に効くクスリ―ONE ON ONE (Vol.11) (YOUNG SUNDAY COMICS SPECIAL)

絶望に効くクスリ―ONE ON ONE (Vol.11) (YOUNG SUNDAY COMICS SPECIAL)


山田玲司さんが、各界で活躍している人々との対談を漫画化した作品の一部です。「漫画の神様」手塚治虫先生の長男でもある、映像作家・手塚眞さんの回から)

山田玲司若い人によくどんなアドバイスをされるんですか?


手塚眞自分を見失わないように…って、よく言ってるんですけど……苦労と…努力が…イコールになっちゃうといけないですね。


山田:苦労してるのを努力してると思ってる人って多いですもんね。


手塚:苦労はしないほうがいいですね。一番の違いは、「やらされてる」か「やってる」かっていう違いだと思うんです。
 実は一回だけ父に「ものづくり」について言われたことがあるんですけど……
 街頭モニターとかに流す環境ビデオを頼まれたんで、割り切って作ったものを父が見たらしいんですよ。どっちみちたいしたものじゃないって思ってたけど、父はその時…「もっと面白くしたほうがいいねぇ…」――って言ったんですよ。


山田:……わかります。それ、すっごく…
 クリエーター、治虫哲学の本質ですね。


手塚:どんな仕事だっていいけど、どれくらい努力してんのかって言われたんですね。これは今でも頭をよぎりますね。


 没後30年、あらためて考えてみると、手塚治虫という漫画家は、日本の漫画の原型をたったひとりで作り上げたかのような「神様」であるのと同時に、原稿が遅かったり(もともとの仕事量が多すぎた、とはいえ)、他の作品にやきもちを焼いたり、人気の凋落を経験したりと、いろいろな面や時期があったのです。
 ただ、手塚先生は、どんなに忙しい中でも、ずっと「やらされている」のではなく、「自分の意思でやっている」人ではあったのだと思います。


火の鳥 1

火の鳥 1

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