いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

「見知らぬ相手と仲間意識を持ち、他者と繋がるためだけのインターネット」の時代を生きている。


あんまり昔話ばかりしていると嫌われてしまうのですが、ときどき、無性にしたくなるんですよね。僕の場合は、もうこれ以上、嫌われようもないだろうし。


4年近く前に、こんな文章を書きました。
fujipon.hatenablog.com

10年前のネットで個人サイト、あるいはブログを書いていた人には大まかに言って2つのタイプがあって、ひとつは「とにかく自分自身をアピールしたい!」というタイプ、もうひとつは「何かモヤモヤしたものがあって、それを誰かに話したいのだけれど、知り合いには恥ずかしくて話せないので、匿名でネットにボトルメールのように流したい」というタイプだった。


前者は、個人サイトがブログになり、SNSになっても、とくに大きな影響は受けない。
まあ、フォントいじりが流行らなくなったくらいのものだ。


後者にとっては、SNSというのは、ちょっと敷居が高い。
彼らは自分が書いたものを「目の前のあなた」に読んでもらいたかったわけではなくて、「お互いに知らないし、知る必要もない誰か」に読んでもらいたかったのだ。


 僕がインターネットにはじめて触れた西暦2000年頃って、「インターネットなんてマニアックなものに書く人も読む人も、ある意味、同志であり、共犯者であった時代」なんですよ。
 それでも、パソコン通信とかに比べると、だいぶ間口は広くなっていたとは思うけど。
 そこから20年足らずで、ネットは、どんどん「誰でも使える道具」になったし、「誰でも使えることによるリスク」も顕在化してきました。
 インターネットは、発言者の属性よりも、内容のほうが重視される世界を実現するのではないか、と思っていたのだけれど、そんなことは起こらず、むしろ、「君子、危うきに近寄らず」が正解になってしまった。


 先述のエントリの締めに、僕はこんなふうに書いています。

表現欲と覚悟だけがあって、「切実に書きたいこと」を持たない人と、金銭欲だけがあって、炎上狙いのエントリを書き続ける人ばかりが残っていくのだとしたら、そんなブログの世界は、あんまり面白くないと思いませんか?


 残念なことに、ある程度、この「予言」は実現してしまったわけです。
 既得権益者や自分の発言に責任を問われやすい立場の人にとっては、インターネットはメリットよりもリスクのほうが高い場所になってしまいました。
 

fujipon.hatenablog.com
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 極論や建前論が目立ちやすく、「平均に近いところ」は、空洞化してしまうのが、いまのネット論壇なんですよね。
 その一方で、みんなは「自分の気持ち」を「仲間内に見せるためのSNS」で発信するようになった。
 「世界中の誰にでも見てもらえる可能性があるインターネット」は、どんどん閉じて、小さな部屋に分かれるようになってきたのです。
 風通しが良い、というのは、実現してみれば、思っていたほど、良いものではなかった。
 晴れているときには星がよく見えるし、気持ちよいけれど、冷たい風が吹き込んでくるし、そこが明るいほど、虫もブンブン飛んでくる。


 インターネットは、もう、ひとつの世界ではなくて、いくつかに分かれてしまっているのではないか、と僕は考えるようになりました。
 この冒頭のツイートで指摘されている、「ソーシャル的にタフな人にすべてが集中してしまうインターネット」、簡単に言ってしまうと(簡単に言う、というのは、ときに誤解を招きやすいものではありますが)、「意識高い系のインターネット」がある。
 現実世界でも面識がある仲間内での「LINE的なインターネット」もある(そもそも、LINEはネットサービスなんですが)。
 そして、この2つのちょうど中間にある、「見知らぬ相手と仲間意識を持ち、他者と繋がるためだけのインターネット」というのが、どんどん勢力を拡大しているように感じています。
 

 ネットの「ホットエントリ」をみていると、「なんでこんなくだらない、身内ネタや日常あるあるや、わかりきった炎上芸やアクセス数報告みたいなのがたくさんブックマークされて、話題になっているんだ?」って、僕はずっと疑問だったのです。
 でも、最近ようやく、その理由みたいなものが、わかってきたような気がします。


 先日、僕の家に来てくれたホームセキュリティの人が、こんな話をしていたんですよね。
「最近、本当にお客さんが携帯電話に出てくれなくなったんですよ。家でチャイムを鳴らしても、反応がないことがほとんどで。留守電を入れるとかけ直してくれるし、あらかじめアポイントメントをとっておくと、ドアも開けてくれるんですけどね。そういう私も、携帯電話に非通知の番号からかかってきても、まず受けませんから、人のことは言えないんですけど……」


 僕が子どもの頃、携帯電話もカメラ付きインターフォンもなかった時代には、とりあえず、チャイムが鳴ったら誰かが玄関に行ったし、電話も取っていました(僕はどちらもすごく苦手だったんですが)。
 でも、最近ではみんな、「いきなり家に訪問してくるのは、宗教の勧誘とかセールスとかの人がほとんど」だと思っているし、知らない番号からの電話は、何かの宣伝か、あまり関わりたくない用事(ひどいときには詐欺)だと見なしているはずです。
 まあ、実際にその通り、なんですよね。
 いろんな「お金儲けのシステム」が追求されていった結果、「近づいてくる他人に、むやみに関わると、ロクな事にならない」世の中になってしまったのです。
 親しげに近づいてくる人の家を訪問すると、宗教かマルチ商法の勧誘だし。
 コミュニケーションの手段が多様化し、便利になったようにみえるけれど、絨毯爆撃が簡単になったことによって、かえってみんな、閉じこもるほうが安全になってしまいました。
 

 しかしながら、そんなふうに社会は変わっても、人間の「仲間が欲しい」という感情や価値観は、急には変わらない。
 人生で一番大事なものは?という質問に「家族」や「友人」と答えることは、いまだに「正解」でありつづけています。
 そこで、「あまり深く接触せずに、新しい『仲間』や『繋がり』をつくる方法」として、インターネットが使われるようになってきたのです。
 なぜ、どうでもいいような話をみんなブックマークするのか、「互助会」と呼ばれるような繋がりができてくるのか?
 彼らのなかで、本当に「組織的にやっている」人たちは、ごく一握りだけだと思うんですよ。
 ただ、「仲間だと思っている人が書いたものだから、仲間のために、あるいは、仲間意識の表明として」採りあげているだけです。
 内容は、くだらなくてもいい。いやむしろ、くだらないほうがいい。
 「くだらない」「誰にでも書ける」内容で、「仲間」が話題になれば、同じくらいの文章を書ける自分にも、チャンスがあると思えるから。
 専門家が書いたエントリや「意識高い系」の文章は、「敷居が高い」から、読めないし、読まない。そもそも、自分には関係のない話だと認識している。


 実際は、ネットには人間の本音が書かれているとは限らないし(というか、いま、ネットに本音に近いことを書いているのは、よっぽどの正直者かバカかテキストサイトから生き延びているゾンビ連中くらいですよ)、ネットで自分を飾り立てたり、都合の悪いことは隠したまま、「理想の自分」をプロモーションしている人が、たくさんいます。
 彼らは、「みんなに役立つ情報を提供します!だって仲間だもの!みんなで幸せになりましょう!」とか言うわけです。
 本当にそう思っているのなら、不安定な投資話とか、FXとか、転職や出会い系をお薦めするわけないのに。
 実際に接触したら、「なんか怪しいな」と思うような人でも、ネット越しだと、それを見破るのは難しい。そもそも、そういう人たちって、リアルでも、「自分をよく見せる天才」であることが多いですしね。ネットでなら、もっと容易いはず。


 ネットって、個人個人と直接接しているわけではないだけに、モラルの低下というか「買う人の自己責任だから」という建前で、相手の人生を悪い方向に引っ張っていく可能性が高い商品やサービスを平然と売っている人が少なくありません。


 あなたが「人生の師匠」だと思っている人は、たぶん、あなたのことを「カモ」だと思っている。
 もちろん、こういうのは対面での商売でも少なからずあるんですけどね。


fujipon.hatenablog.com

 堀江さんは、「フリーエージェント」について、『闇金ウシジマくん』の作者の真鍋昌平さんのコメントも添えて、こんなふうに述べています。

 レオナルド・ディカプリオ主演の『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でも描かれたように、クズ株など実体のない商材を売りつけて、巨万の財産を築く詐欺師まがいのセールスマンは、各国に続出している。
 ワールドクラスのフリーエージェントだ。彼らは堂々と、合法的なビジネスを行い、なかには一般企業と変わらない、まともな形態で事業を進めている例もある。


(中略)


 真鍋さんは、取材で会ったフリーエージェントたちを、こう評していた。
「あの人たちは実際に会うと、見た目はシュッとしていて、しゃべりがとても上手。だけど何を質問しても、気づいたら向こうの話にすり替わって、質問したことが何だったのか、わからなくなってくる。彼らはコミュニケーションを取るよりも、自分をどう成功しているようにプロデュースするかが重要。だから話している内容に意味はない。行動もストーリーじみているというか、すべてがお話じみている」
 フリーエージェントの空虚な正体を、見事に見抜いた論評だ。


 いまのネットでは、「タフ・オピニオンリーダー」や「意識高い系」のような「敷居の高い存在」ではなくて、「仲間になろうよ、自分もつらい思いをしてきたから、と同じ目線で語りかけてくるように見える危険人物」が多いんですよね。
 でも、「仲間が欲しい」「誰かと繋がりたい」と思っていると、心のアラームが鳴りにくくなってしまう。
 所詮、ネットを通じての関係だったら、リアルでのつき合いほど、ひどいことにはならないだろう、という安心感もある。
 実際は、応援しているつもりが、緩やかに(ときには激しく)搾取されているだけなのに。


 もちろん、インターネットのすべてが暗黒大陸というわけじゃなくて、作品を投稿して世に問いたいとか、どうしても自分の意見を言いたい、という人にとっては、ものすごく便利かつ有益なツールではあるのです。
 真面目な話、僕なんて、ある種の依存症だし、もう、ネットがいちばんの「居場所」だからさ。なんかややこしくなってきていても、そう簡単には引き下がれないんだ。
 個人的には、ネットが好きだし、感謝しているのです。
 でも、それがみんなに当てはまるわけじゃない、ということも認識しているし、もし20年前の自分にアドバイスできるなら、『さるさる日記』や『エンピツ』をはじめるよりも、朝倉内科学を読むか、英語の勉強をするか、せめて、同僚ともうちょっと遊んでおけ、と言いたい。たぶん、言う事聞かないだろうけど。
 なんなんだろうね、本当に。
 結局、人って、自分が生きたようにしか、生きられないのかもしれない。


 インターネット側からすると「弱虫な表現者」たちが退場してしまったことは、とてももったいないことだけれど、それは、歴史の必然であり、大部分の利用者にとっては、「関わらないほうが正解」「そこまでして発信するリスクを追う必要なんてない」とも感じています。
 プロ野球でも、文学でも、芸能でも、現実的には「他者がつくったものを享受し、あれこれ言うだけのほうが大部分の人にとっては愉しい」のではなかろうか。
 演者と観客は、常に、適切な割合に維持される。
 少なくとも、そう考えたほうが、ラクだし、幸せなのではないのかな。
 観客でいることは、けっして不幸なことじゃないよ。
 どんなにイヤでも、自分自身の人生では、主役にならざるをえないのだし。


fujipon.hatenadiary.com

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