いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

SNS時代の美術館や博物館の「写真撮影OK」戦略のゆくえ

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 山本幸三・地方創生相の発言は乱暴だし、いろんな創意工夫をしている学芸員さんたちに失礼だとしか言いようがありません。公立の図書館がみんな「TSUTAYA図書館」になってしまって、地元の文化財を紹介するコーナーがカフェスペースになってしまうのが「正しい」ことなのか?


 しかしながら、いち利用者としては、「TSUTAYA図書館」は入りやすいし遅い時間まで空いているし使い勝手が良い、と感じたのも事実です。
 税金を使っているのに、ほとんど人が来ないような「文化財コーナー」に存在意義があるのか。
 効率や収益にとらわれて、大事なものを失ってはいけない。
 しかしながら、誰にも見てもらえない状況で、何の工夫もせずに赤字を垂れ流すのは、「自分はわかっているつもりの人の自己満足的な文化財保護」だという視点は、けっして間違ってはいないと思います。


 ただ、山本さんの発言には思い込みがけっこうあるんじゃないか、「日本はダメ」という先入観が強いのではないか、とも感じます。
 去年の夏に旅行をした際に驚いたのは、現在の「観客を呼ぶ商売」は、かなりSNSを意識している、ということでした。
 シルク・ドゥ・ソレイユがラスベガスのホテルで長年上演している『O(オー)』というショーを10年ぶりくらいに観た際、最後の出演者全員の舞台での挨拶で、クラウン(ピエロ)が白い看板みたいなのを掲げると、周囲の観客が一斉にカメラやスマートフォンを構えて、写真を撮りはじめたのです。
 そういえば、開演前に、ピクチャーがなんたら、とか言っていたような……そうか、SNSによる拡散を期待して、撮影タイムをつくったのか……


 10年前には、「ステージの写真撮影なんて、ありえなかった」のです。
 もちろん、いまでも演技中の撮影は厳禁ですが(すさまじく集中力を要する演技だし、周りの人にも迷惑だし)、シルク・ドゥ・ソレイユも変わってきているのだなあ、と。
 日本公演では、どうだったんだろうか。


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 浜崎あゆみさんがコンサート中に「撮影タイム」をつくった、という話もありましたよね。
 ファンにとっては記念になるし、SNSによる拡散も期待できるしで、お互いにとってのメリットがある、ということなのでしょう。


 ノルウェーオスロ美術館でも(フラッシュ厳禁で)ほとんどの絵の撮影が許可されていました。
 そこには、あの、世界で最も有名な絵のひとつである、ムンクの『叫び』も展示されていて、『叫び』の前で絵の人と同じポーズをとって撮影している人がたくさんいたんですよね。
 それでも、絵の周りは大混雑とか大混乱、というほどではありませんでした。


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 いやあ、海外の美術館は進んでるなあ、なんて思っていたのですが、去年の秋に神戸で行った『ポンペイの壁画展』でも、一部に「撮影OKのコーナー」があったのです。

 考えてみると、デジカメで撮影したところで(フラッシュを使わなければ)絵を傷めるとは考えづらいですよね。


 先週末に行った、国立新美術館の『ミュシャ展』では、目玉出展作品の『スラヴ叙事詩』の一部が「撮影可」になっていました。
 僕も実際に撮影してみたのですが、率直な印象としては「絵を写真にとっても、なんか伝わらない」のです。


 本当に作品を身近なところに置いておきたいのであれば、画集やパンフレットを買ったほうがいいし、どんなに綺麗な写真でも、絵の魅力って伝わりにくいのです。


 僕は『スラヴ叙事詩』って、「晩年に愛国思想に目覚めてしまったミュシャが描いた時代錯誤の宗教画みたいな作品群」だと思い込んでいて、あまり期待していなかったんですよ。
 「まとめてチェコ以外の国で公開されるのは、今回がはじめて」というのにも、「ニーズがなかったんだろうな」とか考えていて。


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 ところが、『ミュシャ展』で展示室に入ってみて、驚きました。


 これは……デカい!


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 僕自身は絵心も観賞眼もない、下手の横好き美術ファンなのですが、この『スラブ叙事詩』の大きさには圧倒されました。
 こういう目の当たりにしたときの迫力みたいなものは、画像や映像では、伝わらないものだよなあ。
 もちろん、絵というのは、大きければいい、というものではないんでしょうけど、大きさというのは、ひとつの価値なのです。
 適切ではない喩えではありますが、僕ははじめて大阪の海遊館ジンベイザメを見たときに「空母で飛行機を活かす時代になりつつあったのに、戦艦大和をつくってしまった人々」の気持ちが、少し理解できたような気がしたんですよ。
 大きいっていうのは、それだけで人を圧倒するものがある。


 ただ、その『ミュシャ展』の「撮影可の部屋」というのは、他の展示室とはちょっと違う雰囲気になっていました。
 それほど大混雑してはいなかったのだけれど、撮影している人の迷惑にならないように、周囲に気を配らなくてはならないし、絵に長時間近づくのもためらわれ、なんだか落ち着かない。
 そんなの、せっかくコンサート会場に来ているのに、ステージの上じゃなくて、ステージ横のスクリーンばっかり観ているようなものじゃないですか。
 そのほうが「見やすい」のは確かなのですが。


 逆に「生」にこだわって、ほとんどみえない舞台上のアーティストを見ることに、そんなにこだわる必要があるのか。
 メガネかけてれば、その時点で「レンズ越しの世界」じゃないですか。
 突き詰めれば、見るという行為そのものも、目から入力された情報を脳が解釈しているだけだし。


 ……話が脱線しまくってるな。



 そもそも、そこに「本物」があって、写真を撮ってもその迫力は再現できないし、観たければネットで検索すれば、いつでも容易に見ることができる。
 多くの人は「作品そのものをデータとして保存しておく」というよりは「自分自身の記念に」とか「SNSで『アート好きな自分』をアピールするために」撮影しているのだと思います。


 こういう「写真撮影の可否」という点だけをみても、学芸員さんの考え方もかなり変わってきているし、「集客のためには、どうすればいいのか」と試行錯誤しているのだな、と感じるのです。
 その一方で、人をたくさん集めると「マナーに問題がある人」も増えてしまいがちですよね。
 「絵を落ち着いて観たい人」にとっては、環境は悪化している。
 とはいえ、集客が期待できなければ、大きな美術展は開催できない。


 これだけインターネットでいろんな情報に簡単に接することができる時代だからこそ、「ライブ」の価値が上がっているのもまた事実なんですよね。
 もう、誰かに自慢できるのって、「自分が体験したこと」くらいしかないから。
 「体験を自慢したい人」「拡散したい人」に比べて、「その自慢を聞きたい人」「拡散されたい人」は圧倒的に少数派であり、誰も感心してくれない体験談が、ネット上には飽和しきっているのですけど。


 個人的には「SNSによる拡散ブーム」も、すでに峠はこえているような気がしています。
 反応するのも疲れるし、反応があまりに乏しいのも虚しいし。


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ミュシャ展

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ミュシャのすべて (角川新書)

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